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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年09月21日
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カテゴリ:古代史



2「行基の出自」


   河内国大鳥郡(天平宝字元年(757)に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)で天智天皇7年(668)、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる


   高志 才智(こし の さいち)は、飛鳥時代の人物。名は(ひつじ)または佐陀智貞知(さだち)とも書かれる。。子に行基がいる。


   高志氏(高志史)は王仁を祖とし河内国和泉国に分布する百済渡来氏族。高志の名称は大和国高市郡阪合村越の地名に由来すると想定される。諸書においても、行基を百済人の後裔で和泉国大鳥郡出身としている。


   一方、別の系統で越後国頸城郡郡司(大領)を世襲した高志氏(高志公)があり、『日本現報善悪霊異記』のみ行基を越後国頸城郡出身としている。


   霊異記を退けて河内・和泉国の渡来系高志氏を出自とし、その本拠をさらに絞れば今の大阪府高石市高石とする説が有力である。



   名前


   行基の骨をおさめた瓶に刻まれた文『大僧上舎利瓶記』によれば、諱を才智、字を知法君とい、行基は才智の長子とする。


   時期が下る『行基菩薩伝』に「高志(または佐陀智)」、『行基菩薩行状記』では高志宿禰貞知と記される。



   事績


   行基の父としてのみ知られ、詳しい事績は不明である。


   行基菩薩伝』によれば、行基は慶雲2年(704)から母と共に住み、和銅3年(710)の母の死まで孝養を尽くした。また『行基年譜』は慶雲元年(703)に行基が生家を仏閣(家原寺)にしたという。江戸時代に編まれた『家原寺縁起』は、家原寺の創建は亡父の追善のためかという。父が慶雲元年(703年)頃に亡くなったので、残された母に孝行したという話は自然だが、確証はない。


   *蜂田古爾比売(はちだ の こにひめ、生年不明和銅3年(710)没)は、日本の飛鳥時代の人物である。河内国(後の和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)の人。高志才智を夫とし、天智天皇7年(668)に僧行基を生んだ。


   古爾比売は蜂田虎身の長女で、天智天皇7年(668)に河内国(和泉国)大鳥郡で行基を生んだ。


   夫は高志才智である。その家は同郡蜂田郷にあった。当時一般的だった妻問い婚招婿婚により、才智が古爾比売の蜂田家に通い、そこで行基が生まれたのであろう。


   古爾比売の事績については知られることはない。修行を終えた行基は、慶雲元年(704)に自宅を仏閣にした。


   後の家原寺である。慶雲2年(705)から古爾比売は、山林修行を終えた行基に導かれて佐紀堂(現在の奈良県奈良市佐紀町)に住んだ。慶雲4年(707)からは生馬仙房(生駒山の家)に移り、和銅3年(710)に死ぬまで行基とともに住んだ。


   行基は母の死後も和銅5年(712)まで生馬仙房(草野仙房とも)にとどまり、質素な生活をした。喪に服したのであろう。後に行基が葬られた竹林寺の前身である。






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最終更新日  2024年09月21日 05時44分25秒
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