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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年09月28日
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カテゴリ:江戸時代


 
柳生の藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受ける。同年秋の終わりごろ、それらの至極をまとめて伝書を著し父に提出して講評を仰ぐ。しかし宗矩より全て焼き捨てるよう(「一炬焼却去」)命じられたため、驚愕して当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧・沢庵宗彭に相談したところ、


   *沢庵 宗彭(たくあん そうほう、澤庵 宗彭、天正元年12月1日(1573年12月24日)正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。


   但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。


   出生から大悟まで


   天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父・綱典は但馬国主・山名祐豊の重臣であった。


   8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得た。


   天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになった。


   文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。


   大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した。春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごした。


   関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。


   この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。慶長6年、薫甫が亡くなった後、和泉国堺に出て、文西洞仁の門下に入った。


   その文西が慶長8年(1603年)に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。


   大徳寺出世入院と隠棲


   慶長12年(1607年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。


   元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入った。


   紫衣事件


   詳細は「紫衣事件」を参照


   江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。


   これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。


   寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。


   これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出した。


   この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年(1629年)、江戸へ召喚されることとなった。


   江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、また玉室を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。時に沢庵57歳のことである。


   配流先である上山藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。


   沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという。


   赦免から家光への近侍まで


   寛永9年(1632年)、沢庵60歳の年に、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。


   沢庵もいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。


   そして玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に拝謁した。


   この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。同年、郷里出石に戻ったが、翌寛永12年(1635年)、幕命により再び江戸に下った。その後、寛永13年(1636年)に玉室、江月らと共に家光に拝謁したところ、二人は帰されたが、沢庵のみ江戸に留まるよう求められ、家光に近侍することとなった。


   国師号辞退から寺法旧復まで


   江戸においては、柳生宗矩の下屋敷(この一室を「検束庵」と名付けている)に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いた。


   度々上方へ戻ったが、寛永15年(1638年)には後水尾上皇に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示があったが、沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世・徹翁義亨へ追諡を願っている。


   また同時期に柳生宗矩の頼みを受け、大和国柳生庄に赴き、後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山している。翌寛永16年(1639年)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなった。


   寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡された。これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われている。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのである。






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最終更新日  2024年09月28日 06時55分44秒
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