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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年09月28日
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カテゴリ:江戸時代


  
11「三厳の著作における記述


   『昔飛衛という者あり』(再出仕する前年の寛永14年の作)


   「愚夫故ありて東公を退て、素生の国に引籠ぬれは、君の左右をはなれたてまつりて、世を心のまゝに逍遥すへきは、礼儀もかけ天道もいかゝと存すれは、めくるとし十二年は古郷を出す。何の道にか心をいさゝかもなくさめそなれは、家とするみちなれは、明くれ兵法の事を案し、同名の飛衛被官の者とも、是等にうち太刀させ所作をして見るに、身不自由にしておもふまゝならぬ事のみなり[3]


   【現代語訳=とある事情で家光公の元を退いて、故郷(柳生庄)に引き籠った。主君の側を離れておいて、世を自由に出歩くのは、礼儀に欠け、天道にも背くと思ったので、12年間は故郷を出なかった。


   他にするべき事もなかったので、一日中家業の兵法の事を考えて過ごし、同名の飛衛被官の者を相手に組み太刀を試みてみたものの、身は不自由にして思うようにならない事ばかりであった。】


   『月之抄』(再出仕後の寛永19年の作)


   「先祖の跡をたつね、兵法の道を学といへとも、習之心持やすからす、殊更此比は自得一味ヲあけて、名を付、習とせしかたはら多かりけれは、根本之習をもぬしぬしが得たる方に聞請テ、門弟たりといへとも、二人の覚は二理と成て理さたまらす。さるにより、秀綱公より宗厳公、今宗矩公の目録ヲ取あつめ、ながれをうる其人々にとへは、かれは知り、かれは知不、かれ知たるハ、則これに寄シ、かれ知不ハ又知たる方ニテ是をたつねて書シ、聞つくし見つくし、大形習の心持ならん事ヲよせて書附ハ、詞にハいひものへやせむ、身に得事やすからす。[2]


   【現代語訳=先祖の跡をたずね、兵法の道を学んでみたものの満足できず、宗厳公の門弟達を訪ねてみたが、各人が独自に解釈したものを教えと称しており、定まった理を得ることが出来なかった。


Ø  そこで、上泉秀綱公から宗厳公に与えた目録、宗厳公から宗矩公に与えた目録をとりまとめ、新陰流を学んだ人々を訪ねて、各人が知っていることを、聞きもし、見もし、およその要領を書きつけ、文章にしてみたもののそれらを容易に体得することはできなかった】


   柳生十兵衛廻国説


   『玉栄拾遺』の記述(宝暦3年編)


   寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の萩をなす。公(三厳)彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず


   【現代語訳=寛永年中に父君(宗矩)の領地である武蔵国八幡山において山賊が出没し、旅人に恐れられていた。三厳公は単身密かにこの地に来て、山賊達を懲らしめた。また山城国梅谷の賊を追い払ったのもこの時期の話である。この他に諸国を巡っていたとする話もあるが、これまで証拠を見たことはない】


   その他の逸話


   京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にし、12人を切り捨て、追い散らした(『撃剣叢談』)


   奥州から始めて各地の道場を片端から訪れては仕合を申し込みつつ、諸国を巡った(『柳荒美談』)


   家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、宗矩の指示を受けて様々に活動した(柳生村・村史『柳生の里』)。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたという話まである(出典不明)



 


   12「剣術上の評価・影響」


   三巌の流れをくむ西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある。下川潮は『剣道の発達』で、この三巌の興した変化によって新陰流は受け身主体となり、和らかに、華やかになり、袋撓の上の形試合では進歩したが、真剣勝負の上から見ると退歩したと評している。


   一方でこの変化については重心を落とした構えを中心とした戦場(甲冑)剣法から、のびのびと「後の先の勝ち」を教えた平時の素肌剣法への転換であるとする意見もある。


   長州藩には三巌の祖父・宗厳の高弟である柳生松右衛門が伝えた新陰流が広まっていた。その松右衛門の高弟である内藤元幸の子・就幸は父から伝授された新陰流を家中に指南していたところ、江戸で三巌が当流(現代風)に改めた新陰流を教えているという噂を聞いて江戸に出て弟子入りし、寛文7年(1667年) 命によって改めて毛利家に仕官した。


   以後、内藤家では松右衛門以来の「古流」の新陰流に対し、三巌により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々これを伝え、後に藩校・明倫館にも採用されて桂小五郎、高杉晋作等も学んだ。


   明倫館(めいりんかん)は、長州藩の藩校。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称された。


   1718年(享保3年)、萩藩5代藩主・毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、13代藩主・毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。


   図書館としての機能も持っていた。


   1863年(文久3年)、藩庁の山口移転により、上田鳳陽[1]が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。


   責任者として明倫館総奉行の職が設置され、加判役支配下であった。


   萩明倫館


   萩明倫館は、敷地内に明倫小学校が建設され、1929年(昭和4年)12月17日、国の史跡に指定されている。敷地内には、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。


   明倫小学校の木造校舎は2014年(平成26年)3月まで使用され(隣接地に新築移転)、2017年(平なり29年)3月に敷地一帯が明治維新150年記念事業として設置された萩市の観光拠点施設「萩・明倫学舎」となっている。


   小山ゆうのデビュー作『おれは直角』は、萩明倫館が舞台である。


   著名な出身者*井上馨*上田鳳陽*桂小五郎*国重正文*高杉晋作*長井雅楽*乃木希典*吉田松陰


   山口明倫館


   3年(文久元年)に、山口市内中心部の亀山東麓にある、堀に囲まれた広大な敷地(亀山校地)に移転した。山口明倫館には文学寮(小学舎と編集局)と兵学寮(歩兵・騎馬・砲兵の三兵塾)が置かれていた。


   亀山校地


   亀山校地・キャンパスは、その後身諸校(旧旧山口高等学校旧制山口高等商業学校旧制山口経済専門学校山口大学経済学部)に受け継がれ、110年間に亘り使用された。1973年(昭和48年)、経済学部が山口大学本部のある吉田(平川)キャンパスへ移転・統合された後は、パークロード建設のため藩校以来の堀も埋められたが、その後一部は復元され、跡地には山口県立美術館、鳳陽館(鳳陽会<山口大学経済学部・旧高商・旧経専同窓会>館)、「鳳陽寮歌石碑」が建てられている。


   大村益次郎が、幕長戦争を前に、明倫館兵学寮教授として、山田顕義等普門寺塾(別名三兵塾)生に対し、士官養成のための近代兵学教練を行ったのが、ここ亀山校地である。






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最終更新日  2024年09月28日 07時24分23秒
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