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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月20日
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カテゴリ:戦国




「戦場は修羅場と化した」後の影響


荒木・中川連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も攻略すると、高槻城を攻囲した。松永久秀・久通父子と阿波三好家の重臣篠原長房も攻囲軍に加わり、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる(『日本史』)。


当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた


    


   〇「近江和田氏」(おうみわだし)は、日本の氏族。本姓は源氏で、六孫王・源経基の子・満政を祖とする。代々、近江国甲賀郡和田谷に住していた。戦国時代に和田惟政を出した。



   和田氏 (幕臣 徳川家臣)[編集]


   惟政の父は和田惟助と伝わるが、惟政の前半生までは不詳な点が多い。和田惟政は、永禄の変で暗殺された13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭に仕え、その将軍職就任に尽力する。織田信長の援助により上洛を果たし、摂津国の支配を任され摂津池田氏、伊丹氏と共に摂津三守護と称された。


   しかし国人衆の力が強い摂津支配は難渋を窮め、惟政は池田氏の内紛を鎮めるため出陣したものの白井河原の戦いにおいて戦死する。跡を継いだ惟長は家中の内紛により家臣・高山友照、右近父子に追放され、和田氏は没落した。惟長はそのまま死亡した説があるが、子孫と称する江戸幕府旗本の和田氏に拠れば、惟長は後に羽柴秀吉に仕えたが振るわず、後に徳川家康に仕え旗本として存続した。



   和田氏 (鳥取藩家老家)


   この家系は鳥取藩家老を務めた一族。本姓は源氏、六孫王・源経基の子・満正を祖とする。代々、近江国甲賀郡和田谷に住していた。池田氏との縁は和田八郎信維が天正10年(1582年)に池田恒興の客将となり、2,300石を与えられたことから始まる。子・正信の代に正式な家臣となり、池田輝政に仕えて4,600石が与えられた。


   池田忠継に従って岡山に移ってからは家老職を務め、寛永9年(1632年)の鳥取転封後は着座家に列し、伯耆国河村郡に所領が与えられた。荒尾氏に次いで格式の高い家として厚遇された和田氏は、河村郡小鹿谷に陣屋を構え、松崎での自分手政治が許された。


   4代・三信は池田光仲の信任が厚く、長年家老として光仲の補佐を務め、「三信死せば我が墓前に来れ」と光仲から約束されたことで知られている。寛文4年(1664年)、光仲から400石与えられて家禄が5,000石に加増され、元禄7年(1694年)には5,500石に加増された。13代・信且は幕末の動乱期に藩の要職を務め、軍制改革などに関った。信且は勤皇思想の強い人物であり、因幡二十士と交流を持ったがために文久3年(1863年)の本圀寺事件の黒幕とされて信美に家督を譲って隠居した。14代・信美は明治2年(1869年)、版籍奉還により松崎並びに小鹿谷陣屋等の所領を返還、その後は鳥取藩大参事などの要職に任命された。


   摂津高山家は宇多天皇の皇子敦実親王から出て、宇多源氏と同族と伝えられ、代々が摂津国三島郡清渓村高山に城を構える地頭職であったといわれる(人物叢書『高山右近』参考)。


   その他の摂津高山氏(上記の平姓高山氏とは系統が異なる)も、同国三島郡高山庄の国人領主として存在して、室町時代頃に高山重基が美濃国本巣郡に移住、そしてその子高山重利が摂津国茨木に移住した。


   戦国時代に荒木村重に仕え、高山飛騨守(友照)・高山右近(重友)を輩出した。右近はキリシタン大名として知られ、織田信長、豊臣秀吉に仕え武功をあげるが、キリスト教が禁教とされても棄教することがなかったため改易処分となり、江戸時代にはルソン島に追放となった。


   なお、摂津の高山氏と江戸時代にも大名として存続した中川氏(中川清秀の子孫)は同族とされる。



   旗本高山氏


   桓武平氏平良文の流れを汲む土肥実平の後裔・小早川氏の庶流一族である裳懸氏の裳懸六郎盛聡を祖とする一族。


   盛聡は主君・小早川隆景が没すると毛利氏を離れ京都に閑居し、裳懸氏を改め高山氏を称した。関ヶ原の戦いでは東軍に参陣。徳川家康本隊で鉄砲頭として鉄砲隊の一隊を指揮し、その功をもって備中国後月郡木子村で1000石を与えられた。嫡男・高山盛勝の時代に所領の一部を上野国新田郡に移されるが、寄合旗本1000石として明治維新までつづいた。分家に盛聡の次男・利永を祖とする旗本450石がある。


 


フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。


自分の知らないところで戦が行われていたことを知った信長は、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した(『尋憲記』)。しかし両軍は動かず、同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出した(『言継卿記』)。


    


   〇「佐久間 信盛」(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。


   尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。


   信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦に参戦した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、戦後に鳴海城を与えられた。永禄11年(1568年)の近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげた。


   吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任された。翌永禄11年の信長上洛後には畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている。浅井長政が信長に敵対した直後の元亀元年(1570年)5月、近江永原城に配置され、柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。


   元亀2年(1571年)8月、松永久秀が白井河原の戦いで敗死した和田惟政の居城・高槻城を接収しようとしたが、信盛が交渉を行い撤兵させている。9月、比叡山焼き討ちで武功を上げ、知行地として近江国栗太郡を与えられた。11月には松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させたという。


   元亀3年(1572年)4月、三好義継と松永久秀・久通父子が畠山昭高の交野城を攻囲したため、交野城の救援として派遣され敵勢を退散させた。


   7月には小谷城の城下町を攻撃。10月、武田信玄が織田家への敵対を露わにした際には、岐阜城に2,000余りの兵と共に留守居として入り美濃の守備を固めている。11月には平手汎秀・水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に派遣されるも、信盛は27,000の武田軍を目の当たりにして、ほとんど戦わずして、遠江と三河の国境にある浜名湖付近の今切まで退却した(三方ヶ原の戦い)。


   天正元年(1573年)4月、信長の名代として織田信広、細川藤孝と共に二条御所に派遣され、将軍・足利義昭と和睦の交渉を行った。同月、柴田勝家、丹羽長秀、蒲生賢秀と共に、六角義治が籠城する鯰江城攻めを命じられ、四方に付城を築いて攻囲した。


   8月、一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際、信盛は思わず涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしてしまった為に信長をさらに怒らせ、厳罰を命じられそうになる。


   他の家臣達の取りなしでその場では辛うじて処罰は免れたものの、信長からは相当根に持たれる事となり、後に突きつけられた折檻状の19ヶ条の中に上記の一件も加えられている。


   その後は六角氏の菩提寺城を攻略し、続いて六角義賢が籠る石部城を包囲。11月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を攻め、自害に追い込んでいる(若江城の戦い)。


   天正2年(1574年)2月、武田勝頼が軍勢を率いて明知城を包囲した際には、尾張・美濃衆を率いて援軍として派遣された。この時期、信盛は対武田氏における司令官であったと考えられている。4月、前年から包囲を続けていた六角義賢の石部城を攻略、信盛の軍勢が入城した。7月には長島一向一揆攻めに参陣、松之木の渡しを押し渡り、馬上から数多くの一揆勢を切り捨てた。


   天正3年(1575年)3月、徳川家康のもとへ派遣され、長篠城等の武田・徳川領国の境目の城々の検分を行った。4月、信長に従って三好康長が籠る高屋城や新堀城を攻撃し、降伏に追いこんだ(高屋城の戦い)。


   5月には長篠の戦いにも参陣した。6月、奥三河の武節城を陥落させ、奥平定能・信昌父子に城を預けて織田信忠の岩村城攻めに援軍として加わった。8月には転戦して越前一向一揆征伐に参加。11月、嫡男・信忠に家督と岐阜城を譲った信長を自らの館へと迎え入れている。


   12月、信盛は与力の水野信元が、前月に降伏して処刑された武田氏の秋山虎繁と内通し、兵糧を密かに虎繁が籠っていた岩村城に流していたとして信長に訴えたという。


   信長はこれに怒り、信元の甥である家康に信元を殺すように命じた。これにより信元は石川数正に三河大樹寺に誘い出されて平岩親吉によって養子の信政共々暗殺された。こうして信元の所領と居城であった刈谷城は信盛の直轄領に組み込まれた。


   天正4年(1576年)1月、織田信忠が千秋季信に熱田大宮神職を与えた文書に息子の信栄と連署で副状を発給している。ほかに同様の事例が見られないことから当時、信忠を補佐する立場にあったことが指摘されている。


   5月には石山合戦の一環であった天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政が戦死したことを受け、信忠の補佐役を離れて対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。


   天正6年(1578年)、与力の若江三人衆・多羅尾綱知が三箇城主の三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じて謀反を企んでいるとの噂を広めた。これを知った信長は激怒して三箇頼連を捕縛させたが、信盛がその無実を訴えたため頼連は許された。しかし多羅尾綱知は執拗に三箇父子を讒言したため、信長は信盛に頼連を誅殺するよう命じたという。この時も信盛が信長を説得して翻意させたため頼連は救われた。


   同年9月30日、信長は堺に赴いて第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破った大船を見物し、その帰りに津田宗及邸での茶会に参加した。信盛は近衛前久、滝川一益、松井友閑と共に信長の相伴にあずかって席入りしており、御供衆として供奉した重臣・側近ら(細川信良、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、万見重元、堀秀政、矢部家定、菅屋長頼、長谷川秀一、大津長昌、河尻秀隆、三好康長、若江三人衆)とは別格の扱いを受けている。


   天正8年(1580年)3月1日、朝廷より本願寺へ派遣された講和の勅使(近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保)の目付として松井友閑と共に同行を命じられる。8月2日、教如の本願寺退去を検視する勅使に友閑と共に再び同行した。こうして本願寺との10年続いた戦に終止符が打たれた。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括していた。


   同月25日、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放された信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動したと伝えられ、佐久間家の郎党も信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。


   なお、この最後まで付き従った者は、後に信栄が赦されて帰参が叶った時、その忠誠心を賞されて小者の身分から士分に抜擢されたという。『信長公記』はこの間の佐久間父子の凋落をあわれみをもって記している。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である畿内方面軍の軍団を統率することになったのは明智光秀であり、本能寺の変への機会を与えた。明智軍記には佐久間らへの情け容赦ない処分を引き合いに出して、明日はわが身と家中が反乱に傾いたという記述もあり、これが事実であれば動機面での影響もあったことになる。


   ただし、高野山から追い出されたというのは、『信長公記』の誤謬だともされる。神田千里によれば、佐久間信盛自身の書状や『多聞院日記』の記述から、信盛が高野山で平穏に余生を送ったことがわかるという。


   高野山在住時、山岡景友が平井阿波入道と共に信盛を訪ねてきたことがあったという。信盛はこれに感激し、涙を流して喜んだと伝わる。


   天正10年(1582年)1月16日、紀伊国熊野あるいは高野山にて死去した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。直後に信栄は織田信忠付の家臣として帰参を許された。


   資料による検証


   佐久間氏の武功を記録した『佐久間軍記』には、追放について「誰かの讒言でもあったのではないか」という意味のことが書かれており、この書が成立した江戸時代初期でもそのような見方が存在していたことが窺える。


   また『寛政重修諸家譜』の信栄(正勝)の項には


後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府 其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附屬せしむ。『寛政重修諸家譜』「佐久間家 信榮」


   と、「明智光秀の讒言があった」ことが明記されている。ただし、『寛政重修諸家譜』は18世紀末に成立したものであり、また、その内容について出典を明記していない為、注意が必要である。


    


   〇「明智 光秀」(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。


   出自、生年、出身地、青年期


   清和源氏の土岐氏支流]である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている。


   光秀は自身の出自に関する証言はほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。


   生年


   生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。


   また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。


   生誕地、幼少期の土地


   生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる 少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている。このほかに近江国出生説もある。井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性を指摘。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。


   青年期


   青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。


   その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われる[注釈 11]。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。






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最終更新日  2024年10月20日 11時19分02秒
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