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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月28日
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カテゴリ:戦国



14「戦局逆転


8月22日に徳川家康が武田領の駿河田中城へ侵攻したため(『家忠日記』)、勝頼は和平仲介を断念し、兵の一部を残し8月28日に撤兵した(『上越市史』別編(上杉氏史料集) - 1666号)。


勝頼が帰国すると間もなく景勝・景虎の和平は破綻。翌9月に入ると北条氏政がようやく本腰となり、氏照・氏邦が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。


北条 氏照(ほうじょう うじてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の四男。


宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した。


大石家養子[編集]


北条氏康の三男として生まれる。 弘治元年(1555年)11月に下総葛西城で行われた古河公方足利義氏の元服式に、兄弟で唯一父と一緒に参加している。


 弘治2年(1556年)5月、大石家の領国に所在した相模座間郷の神社の再興にあたって大檀那を務め領国支配に関与し始める。また、この年元服したとされ、仮名の源三と氏照を名乗ることになる。


大石家に養子入りしてもしばらく、具体的な領国支配は氏康が管理し、家老としてつけられた狩野泰光(のちの法円宗円)と庄式部少輔が当たっている。


永禄2年(1559年)11月、大石家の本城由井城に入り、自ら由井領の領国支配を開始する。この年大石定久の娘・比左を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。


自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。


永禄5年(1562年)3月、前年に北条氏に滅亡させられ、由井領に北接して展開していた国衆・三田氏の領国であった勝沼領を与えられて由井領に併合した。それにともなって永禄6年から永禄10年までの間に、新たな本拠として滝山城を構築し、移っている。


永禄10年(1567年)からは北関東・南関東の取次を務めるようになり、北条家の外交・軍事において重要な役割を担い始めた。


この年の末に武田信玄の家臣・小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。


その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという(この時、氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる)。このような氏照の奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。


永禄12年(1569年)、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。


この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いである。 この年の12月までに大石から北条姓に戻している。


北条復姓後


天正2年(1574年)1月以来、下総国関宿城の攻撃を本格化させ、義重の斡旋で簗田持助も抵抗を諦め閏11月16日には抵抗を諦め、19日には開城させた。 これ以降古河公方・足利義氏の後見を務め、利根川水域を支配した。


天正3年(1575年)6月氏政は下野国奪取を目論み、氏照らを下野に侵攻させ榎本城を攻めて落城させた。勢いに乗る北条軍は小山秀綱の本城を攻め、12月には小山城が落城し秀綱は佐竹氏のもとに落ち延びることになる。


 この年頃から北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働くようになり、同年から天正4年(1576年)までの間に陸奥守を称するようになる。、天正6年(1578年)、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。


しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。


織田、豊臣との接触


天正7年(1579年)、甲相同盟が手切りとなると、北条氏は織田信長、徳川家康との同盟交渉を開始し、9月11日には氏照の使者が信長の本拠安土城に到着している。


天正8年(1580年)には織田氏に従属の表明と氏政の言上を伝えるために本家の宿老笠原康明と氏照宿老の間宮綱信を派遣し、3月10日信長に謁見している。


この年の5月15日に氏照は甲斐西原に侵攻している。 同年から9年(1581年)の間に八王子城を構築し、本拠をそこに移している。


天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って北条領を拡大した(神流川の戦い)。信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐国や信濃国に侵攻した(天正壬午の乱)。


天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された。


小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹(自害)を命じられた。


「寛政重修諸家譜」の江戸幕府奥医師の田村安栖家系譜では「氏輝」と誤記されているが、侍医で京都紫野大徳寺の住職日新和尚の兄で笠原弥六郎(笠原越前守養子)の実父にあたる田村長傳(安栖)の宅で切腹したとされる。


辞世は


吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」


「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」


没後、家臣・中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造し、八王子市元八王子3丁目に今も現存している。


 


北条 氏邦(ほうじょう うじくに)藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。北条氏康の五男。


従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母としていると考えられていたが、元亀2年(1571年)における北条家中での序列がこれまで弟とみられてきた氏規どころか氏康の養子(実際は甥)である北条氏忠よりも下に置かれていたことが判明し、氏規よりも年下でなおかつ側室の子と考えられるようになった。


その後、天正10年(1582年)の時点では氏忠よりも上位に位置づけられ、天正14年(1586年)頃には氏規よりを抜いて氏照に次ぐ地位に位置付けられている。


黒田基樹によれば、氏邦が嫡出で年長であった氏規よりも高い政治的地位に位置付けられることは通常ではありえない事態であり、この判断は「御隠居様」としてなお北条家最高権力者の地位にあった氏政の判断とされている。


北条家の関東支配において、氏邦の担う役割の重要性を十分に認識し、氏邦の功績に鑑みて氏照の次点としたとされる。


そのために、瑞渓院と養子縁組が行われたとする。


永禄元年(1558年)には武蔵北部の最大有力国衆の藤田氏の養子になったとされる。


永禄11年(1568年)甲斐武田家との抗争が始まると新たな本拠として鉢形城を構築した。領国は鉢形領と称されるようになった。


永禄12年(1569年)から開始された越相同盟の交渉において、かつて上杉家に従属経験のある由良成繁とその由良への指南役を務める氏邦がそれを取り纏める中心的な役割を果たした。元亀2年(1571年)同盟が破棄された後は上野の領国化をすすめる役割を果たした。


天正4年(1576年)、安房守を名乗るようになる。安房守は、室町時代に上野守護職を歴任した山内上杉氏の歴代の名乗りであった。


氏邦がそれを名乗ることは山内上杉家に代わり上野の国主になることを表明するものであった。


天正6年(1578年)5月、上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると弟の上杉景虎の援軍要請に応じた長兄氏政の名代として、次兄氏照と共に景虎支援のために越後に出陣。


北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。


天正8年(1580年)には織田氏に従属の表明の際、氏邦は負担として黄金3枚を負担している。


天正10年(1582年)の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させている。


直後の天正壬午の乱にも参戦している。


天正10年7月までは藤田家を称していて、それ以降から天正15年(1587年)11月までの間に北条姓に復姓している。


天正11年もしくは12年頃に氏政の子直定を養子に迎えている。


天正17年(1589年)、7月24日頃沼田領の請取が行われ、それを氏政は氏邦が管轄させ、氏邦はそれをさらに宿老でかつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させることにし、9月には猪俣邦憲は領域支配を開始させている。


 10月22日、真田家で留保されていた名胡桃城で内紛があり、中山九郎兵衛が城代鈴木主水を追放し、猪俣邦憲に加勢を求め、邦憲は軍勢を派遣した(名胡桃城奪取事件)。


天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張したが容れられず、居城・鉢形城に籠もって抗戦する。


しかし、圧倒的な大軍を前に、上野・下野・武蔵北部を経略され、鉢形城を包囲されると、出家姿になり、藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居して降伏・開城している。


戦後は攻撃の大将であった前田利家の家臣となり、慶長2年(1597年)、加賀金沢にて50歳で病没した。金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。


その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。妻の大福御前は鉢形に残ったものの文禄2年5月10日(1593年6月9日)に病死したとも、自害したとも言われている。



その後


氏邦の死去後、利家は京都紫野大徳寺で喝食となっていた末子を召し出して北条庄三郎として還俗・元服させ、氏邦の知行を相続させた。


その後采女と通称を改め、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした。その後、采女は死去し、子主殿助が家督を継ぐ。主殿助は正保4年(1647年)6月に病死した。男子がなかったため、知行は収公され、娘に5人扶持が与えられた。


一方、養子の直定は小田原開城後氏直らと共に高野山にて蟄居した後は徳川家康に仕え、紀州徳川家に家臣として付された。その子氏時より紀州徳川家に仕え、氏時の子氏常(うじつね)、養子氏成(うじなり/うじしげ)、氏賢(うじかた)まで確認できる。


 


小田原北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、小田原北条勢は樺沢城に氏邦・高広らを置き、景広を遊軍として残置し、撤退した。


春日山城下を撤退した武田勢はこの頃、春日山城・御館と坂戸城の間を当てどなく徘徊していただけであったが、結果的に景虎方・小田原北条勢に対する抑止力となった。


9月下旬には再び家康が駿河田中城への攻撃の動きを見せ、勝頼は和平仲介の余裕を失うが、景勝は坂戸城と信濃を結ぶ妻有城を武田方に割譲し、武田方の大熊長秀と市河信房が入城している。


10月に入ると、景虎方では御館を初めとして兵糧の窮乏が相次いだ。いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻め立てたりもしたが、如何せん諸将との連絡が途切れがちなので勢いは知れたものであり、この状態で年を越すこととなった。なお、天正7年7月20日には勝頼の妹・菊姫が景勝に輿入れをしている。


 


15「景虎の滅亡と乱の終息


外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の終息を決心した。一方、景虎方は味方の相次ぐ離反や落城を止められず、窮地に陥った。そして天正7年(1579年)2月1日、景勝は配下諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じた。


早くも同日には景広を荻田長繁が討ち取り、方々に火を放った。


小田原北条勢の橋頭堡であった樺沢城も景勝方に奪回された。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日には謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。


御館は放火されて落城し、景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、24日に自害した。


越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が終息したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであった。



 


16「周辺とその後への影響


乱は景勝の勝利に帰したが、深刻な負の影響を残した。双方の勢力が拮抗した内乱であったため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、北陸を東進する織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮することになる。また恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらした。


戦後に与えられた恩賞は、景勝の出身母体かつ権力基盤である上田衆に多く与えられたため、恩賞を巡る諍いで安田顕元らが非業の死を遂げ、さらには不満を抱いた新発田重家が蘆名盛隆・伊達輝宗に通じて自立する。新発田重家の反乱鎮圧には実に7年もの歳月を要し、中央政権は本能寺の変で横死した織田信長から羽柴秀吉に移り、景勝が秀吉に臣従した後であった。


景勝は謙信と共に戦った国人衆を粛清し、上田長尾系が君臨する体制に切り替えていった。


加えて、この内乱の隙を突いて信長配下の柴田勝家が上杉領及び同盟勢力である加賀や能登、越中を席捲し、会津からも蘆名盛隆が侵攻してくるなど、この御館の乱は謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させたのである。


御館の乱は、武田家滅亡の遠因にもなった。氏政は、実弟(或いは従弟)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。


当初、勝頼は景虎を支援して自ら出陣したが、その後景勝支援に回る。その理由として、隙をついた徳川氏が遠江・駿河方面に侵攻してきたこと、北条氏の景虎救援の動きが鈍く消極的なことから同盟者としての信頼が揺らいだこと、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させること(具体的に言えば、上杉家と北条家が一体化することで三日月を描くように武田領が包まれる形)を警戒したこと、景勝が講和条件として上野沼田領の割譲と黄金の提供とを申し出たこと等が挙げられる。


これにより、武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。


氏政はこれを勝頼の背信として第二次甲相同盟を破棄し、天正7年(1579年)9月5日に徳川氏と、翌8年(1580年)に織田氏と同盟する。これにより、上杉氏の国力が著しく疲弊していく中で武田氏は三方に敵を迎える。


北関東(上野国)では北条氏を圧倒した勝頼であったが、逆に駿河沖での海戦では大型安宅船を持つ北条水軍に敗北。さらに度重なる伊豆・東海道方面の戦いでは北条・徳川両家の共同作戦によって勝頼は東西に振られることとなり、武田家の経済状況は逼迫した。これは駿河を統治する穴山信君の負担と不満を増大させ、武田家の弱体化の大きな要因の1つとなった。


天正10年(1582年)の織田・徳川・北条勢による甲州征伐は、結果的に上杉氏に重大な危機をもたらす結果となった。


景勝には同盟者勝頼を支援する余力はなく、武田氏は約1か月で滅亡し、越後と接する旧武田領はことごとく織田領と化して緩衝地帯が消滅し、上杉は全方向を敵に囲まれることになった。


これまで戦ってきた北陸の柴田勝家(織田家臣)、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆に加えて、信濃から森長可、上野からは滝川一益と他の織田家臣にも攻め込まれ、崩壊一歩手前まで追い詰められた。しかし、本能寺の変によって織田軍は退却し、織田領となっていた旧武田領は景勝と家康・氏政が奪い合い(天正壬午の乱)、景勝は北信濃を支配下に置くことができたが、それ以上積極的な動きをすることができなかった。


景勝を取り巻く状況は依然として厳しかったが、蘆名盛隆が天正12年(1584年)に、伊達輝宗が翌13年(1585年)に相次いで死んだことにより、後ろ盾を失った新発田重家に対しようやく有利に戦いを進められるようになった。


天正14年(1586年)、信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉が、石田三成を通じて景勝の臣従を求めてくると、景勝は上洛して秀吉の傘下に入った。以降、景勝は秀吉の全面的な支援の下、重家を討ち取り、佐渡と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方を領有する。


豊臣政権に早くから服従した景勝は秀吉からの信任が厚く、慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれた。


旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と出羽庄内地方のみで、後は伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。


また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。


常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、宇都宮12万石に減移封された蒲生氏に代わり東北諸大名と家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなり、秀吉没後に家康が主導する会津征伐の軍が北へ向かった。


会津征伐で家康らと交戦する前に石田三成らが挙兵したため、家康は諸将を率いて西へ引き返し、関ヶ原の戦いで勝利。家康寄りの周辺諸大名と戦った(慶長出羽合戦)景勝は改易は免れたものの、慶長6年(1601年)には北隣米沢へ減移封された。


信越に覇を唱えた上杉家も景勝一代で東北の一大名へと没落したものの、景勝以降の藩主は謙信の遺骸を祀って神格化することで家中や領民の求心力を維持し、また上杉の家名を高めることに努めた。







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最終更新日  2024年10月28日 07時53分49秒
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