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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年11月05日
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カテゴリ:戦国



14『甲陽軍鑑』では跡部勝資、長坂光堅ら武田勝頼の側近が主戦論を主張し、宿老家臣の「撤退すべき」という意見を無視し決戦に臨んだというが『甲陽軍鑑』は勝頼期に跡部勝資ら新興の出頭人と古参宿老との対立が武田家の滅亡を招いたとする構図を記しており、文書上において跡部勝資は信玄後期・勝頼期の側近として重用されていることは確認され、武田家中における新興側近層と古参宿老層の関係が長篠合戦について記される逸話の背景になっている可能性が考えられている。


『武家事紀』には、かねてから佐久間信盛が偽って勝頼に内通し、裏切りを約束していたために、勝頼が進軍して大敗したとある。


『常山紀談』では、信長の謀略で、信盛が長坂光堅に内通して裏切りを約束して、光堅から一戦を勧められた勝頼が、馬場信春らの意見を用いず進軍を決断したという話が載せられている[22]


今回と状況が似ている前年の第一次高天神城の戦いでの圧勝で自信過剰となって勝てると判断したという説や、鳶ヶ巣山に酒井忠次の別働隊3,000の迂回を武田軍は察知しており、第四次川中島の戦いの逆説的な再来を狙ったという説などもある。


当時の情勢を見た場合、信玄後期時代の時点で織田家は尾張・美濃・南近江・北伊勢・山城他近畿圏にまで勢力を伸ばし、単独で対抗しえる勢力は皆無であった。


そこで信玄は近畿圏において浅井長政・朝倉義景及び石山本願寺(一向衆)等の各勢力により織田家の兵力を拘束し、東方へ向ける兵力を限定させた上で三河・尾張若しくは美濃で織田と決戦するという戦略を立てていた(第二次信長包囲網)。


後を継いだ勝頼もその基本戦略を踏襲していたが、有力な勢力だった浅井・朝倉や長島一向衆が勝頼の代には既に滅ぼされており、武田家と本願寺を残すばかりとなっていた。


また、織田家の勢力の伸張は急速であり、日に日に国力差が開いていく現状を鑑みれば、どのみち早い段階で織田家と主力決戦を行い決定打を与える必要があった。


逆に信長の立場から見た場合、武田と直接戦わずとも時間が経つほど戦略的に優位に立つことになり、この時点で戦う必要は必ずしもなかった。信長自身が出陣したことで徳川に対する義理(後詰)も果たしている。


そもそも長篠の戦いの主目的は、長篠から武田を撤退させることである。そのため、合戦をしても負けさえしなければ良く、武田方が攻めてくる前提で陣城を築き、鉄砲を大量に配置したことは目的にかなっていた。


徳川家としては、今後の遠江攻略を視野に入れると、今回是非とも合戦を発生させて、強力な織田の援軍のいる時に武田を叩いておきたいという考えがあった(特に鳶ヶ巣山砦攻撃の発案は徳川方である)。


事実、この戦いによって徳川家の目論見は成功し、長年、武田家と小競り合いを続けてきた三河を完全に掌握し、以後、歴史的惨敗で急速に弱体化した武田家を相手に攻勢に打って出ることに成功している。


一方高澤等は、織田・徳川方はすでに2月の段階で佐久間信盛を派遣して合戦地周辺の情報を収集させ情報を共有していたことから、長篠の戦いは姉川の戦いのように、あらかじめ武田方に対して合戦日時と合戦地を申し合わせしていた可能性があるという考えを示しており、当合戦は最初から信長によって計画されて発生したものとしている。


両軍の兵力数と損害数


通説では織田・徳川連合軍38,000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊4,000)、武田軍15,000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3,000)となっているが諸説ある。


高柳光寿は『長篠之戦』で、織田12,000-13,000、徳川4,000-5,000とし、武田8,000-10,000でその内、設楽原へ布陣した兵数が6,000-7,000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。


武田氏の動員兵力は、『甲陽軍鑑』にある騎数9,121から想定し最小で36,000最大で52,000の動員が可能であったと考えられている[注釈 17]。このうち一部の兵力は、織田以外の勢力への備えとして領国内に残留させていたと考えられている。


元亀3年(1572年)の西上作戦では30,000の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。この理由として、対上杉に戦力を割かれたため(この時は対上杉に10,000の抑え部隊が配置されていたと言われる)、国人の経済状況の悪化による軍役拒否、長篠城攻城及び徳川単独との決戦のため(15,000と見ても可能性がある)等の理由がよく言われる。


特に最後に関しては、織田との合戦を考慮していなかったという意味になるが、信長が出陣した時点で既に退却か長篠城強襲かを決定する必要があるため(信長の岐阜出陣は5月13日、三河牛久保から設楽原へ向かったのが5月17日)その可能性は低いことになる。


被害については信長公記の10,000人以上が通説になっているが、同時代に成立した『多聞院日記』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。


そのため、武田軍の犠牲者は1,000人程度だったのではないかという説がある(ただし「国衆」を国人級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。また、『兼見卿記』には「数千騎討死」とある。


織田軍の鉄砲数と三段撃ちについて


長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3,000丁を用意して兵に配布し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。


通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は為す術もなく殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、後述にもあるように経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。なお、三段撃ちはマウリッツ (オラニエ公が行った軍事革命の一つでもある。


通説である鉄砲3,000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1,000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。


これは甫庵本の3,000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。


しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。


太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺」(1,000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1,500丁)、3,000丁とは書かれていない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。


また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝や筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。


つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1,500丁は考えうる最低数の数といえる。


当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えた場合、これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って30,000、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほどは充分用意できた可能性がある。


以上の内容を考慮して織田家が使用した鉄砲数が通説よりも少ない1,000丁だったとみても、当時としては充分に特筆すべき数ではある。また、武田軍全軍が通説通り1万数千人と仮定した場合、勝頼本隊を別にして、戦死した馬場隊・内藤隊・山県隊・真田兄弟隊・土屋隊や、撤退した穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊と分けて行くと、部隊ごとに差はあるにしても一部隊の人数は2,000人に達しない。


この部隊単位で考えれば、織田軍の鉄砲が1,000丁であったとしても、相対的に相当な数である(また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある)。


「鉄砲三段撃ち」は有名な戦法であるが、実在は疑問視されている。『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。


それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されている)。


ただ、先述のように信長がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んだことは疑いようがない。


『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」という鉄砲の打撃力を示す、描写がある。


より具体的には「長篠の戦いの緒戦で、武田軍は家老山県昌景を一番手として織田陣営を攻め立てたが、織田軍の足軽は身を隠したままひたすら鉄砲を撃ち、誰一人前に出ることはなかった。山県隊は鉄砲に撃たれて退却し、次に二番手、三番手と次々と新手を繰り出すが、それもまた過半数が鉄砲の犠牲になった(要約)」とされる。


ただし、#両軍の兵力数と損害数に記述されるように、本当にそれだけの損害を与えられたのかは別に疑問が残る。


とはいえ、死なずとも負傷兵となれば、これを退かせる必要があり、負傷した人間を後送させるにも最低1名、つまり計2人以上を前線から遠ざけることになる(この考え方は現代でも行われている)。


具体的な運用法は不明だが、鉄砲隊をある程度集中した部隊として機能させていれば、1度の射撃で部隊単位の戦力を大きく消耗させることは不可能ではなく、結果的に三段撃ちがなくても、武田軍を消耗させることは難しくないといえる。


名和弓雄は現代に於いて火縄銃の発射を再現した経験から「三段撃ちは不可能」との見解を示している。


織田・徳川連合軍の勝因としては、脆弱に見える馬防柵の突破が容易と誤認させることで武田軍を誘引したうえで、空堀と銃眼付き土塁に守られた鉄砲隊が射撃を浴びせたことと、鳶ヶ巣山砦の攻略により荷馬を四散させられた武田軍の焦りを挙げている。


武田側は、事前偵察が鉄砲で悉く撃退されたうえ、開戦後は轟音と硝煙で戦場の様子が把握できず、織田・徳川連合軍の防備や戦力を把握できないまま突入を繰り返したと推測している。


武田軍が大敗した理由


武田軍が大敗した理由としては、通説では武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できず、また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させ、著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。


しかし、#織田軍の鉄砲数と三段撃ちについてに記述されるように三段撃ちは実在が疑わしく、また、武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい(火縄銃の有効射程は50-100m)。そして『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。


鉄砲による損害に関しては「三段撃ちこそなかったものの、1,000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないか」とする井沢元彦が2001年に発表した説がある。過去に織田軍も雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃主を秘匿するために行った囮の空砲の速射で大混乱に陥ったことがあり、当時の軍隊には鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。


逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はなく、過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた面は否定できない。また、当時として異例の野戦築城は、それ自体が重要な史実であると同時に、当然武田軍にとって初めての経験であり、従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。


上記の井沢説に対しては、鈴木眞哉が反論をしている。武田家では、以前から鉄砲を使用し、長篠にも大量に持参しており、武田勢の銃撃を浴びた長篠城が穴だらけにされたと、徳川家康が述べているので、馬が銃声にどう反応するかということは武田家でも承知していたはずであるから、井沢の主張は前提からして全てが成立しないと批判している。


一方で、待ち構える鉄砲隊に歩兵や騎馬が突撃を敢行するのは無策・愚策であったかというと、当時の感覚では「正攻法」であり、後年の合戦でも沖田畷の戦いや戸次川の戦いでは大量に鉄砲を装備した龍造寺軍や豊臣軍に対して島津軍は弓の援護と太刀による突撃を繰り返し(鉄砲の数では島津軍が劣る)、弾の装填に時間のかかる鉄砲衆はもちろん長槍隊も無効化して勝利していたり、時代を遡れば織田軍も対本願寺戦や雑賀衆攻めで敵の鉄砲隊に対して鉄砲の装備率や兵数に劣りながらも、突撃を敢行して窮地を脱した事や逆に大敗をした経験があった。


甲陽軍鑑においても「鉄砲隊に対する突撃」という作戦・戦法そのものを否定した記述はなく、圧倒的兵力差がある織田徳川連合軍との決戦に至った事を非難している。


他に大敗の理由としては武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。


これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。


まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにもかかわらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君、武田信豊)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。


現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。


また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。


間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃により退路を脅かされたため、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる。


また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられている(特に信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであった)(長篠日記・設楽史)。


このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる。


武田騎馬軍団の存在


長篠の戦いにおける「武田の騎馬隊」に代表される戦国期の騎馬軍制の実態についての実在については、近年軍事史的観点から注目され、様々な異論がある。


平安・鎌倉・戦国期の馬


武田氏の本国である甲斐国を含む中部高地では西日本に先行して古墳時代の4世紀後半代にウマが伝来し、馬骨や馬歯、古墳の副葬品としての馬具の出土事例が見られる。古代には記紀に甲斐の黒駒と称される名馬の伝承が記され、聖徳太子が付加される。平安時代には御牧が経営され朝廷に貢馬を行っている。また、戦国期に武田領国となった信濃においても伊那谷で古墳時代からの馬の出土事例があり、平安時代には御牧が存在した。


甲斐国における馬遺体の出土は戦国期のものが少なく、平安・鎌倉時代のものが多数を占めている。


南アルプス市百々(どうどう)の百々遺跡や南アルプス市の大師東丹保遺跡、甲府市朝気の朝気遺跡からは馬遺体が多数出土しているが、三者とも乗馬ではなく、百々遺跡は馬遺体は皮革利用、後二者は駄馬・農耕馬であると考えられている。


戦国期の馬遺体では甲府市武田の武田氏館跡から出土した馬の全身骨格が知られる。


これは西曲輪南側の枡形虎口に伴い馬出空間から出土した個体で、年代は戦国期から近世初期、推定年齢12歳の雄であると推定されている[31]


騎馬隊は存在したか


色々な説があるものの、この戦いで織田徳川連合軍が馬防柵を構築していたことや、直前の5月18日付けで徳川家康より家臣宛に「柵等よく念を入れて構築するように。


(武田方は)馬一筋に突入してくるぞ」という趣旨の命令書を発していること、信長公記に「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまく、この時も馬を使ってかかってきた」と書かれていること、実際に参戦した徳川家臣の日誌に「武田の騎馬武者が数十人で集団を組み攻めかかってきた」などの記述がある事などから、連合軍が武田の騎馬隊を注意深く警戒し、武田側が組織だって編成していたかはともかく騎馬武者の集団が幾度となく織田徳川軍の陣に攻めかかってきていたのは事実である。



絵画における長篠合戦


 


近世期には屏風絵において軍記類の記述に基づき著名な戦国合戦の様子を描いた戦国合戦図屏風が製作され、長篠合戦図屏風は10の作例が知られる[注釈 19]


現存する作例のうち原本を考えられているものが尾張徳川家の附家老で犬山藩主の成瀬氏に伝来した「長篠合戦図屏風」(犬山城白帝文庫所蔵、公式サイトに解説あり)で、成瀬本は六曲一双の本間屏風で「長久手合戦図屏風」と対になる。長篠合戦図は右隻となる。


紙本着色、寸法は縦165.2㎝、横350.8㎝。


画面構成は右端の一扇目には大野川・寒狭川に画された長篠城と城将である奥平貞昌の姿が描かれ、右下には鳶ノ巣山砦が描かれている。


ニ扇目には武田勝頼の本陣が描かれ、上部には馬場信春の最期が描かれている。第三、四扇目には設楽原における決戦の様子が描かれ、馬防柵に守られた徳川勢の鉄砲隊と突撃する山県昌景の騎馬隊が描かれている。


第五、六扇目には織田・徳川勢の本陣が描かれ、信長や家康のほか羽柴秀吉や滝川一益ら諸将の姿が描かれているが、特に徳川勢の布陣が大きく描かれ成瀬氏の始祖である成瀬正一のほか徳川家の譜代家臣の諸将が描かれている。


描かれている諸将の配置や場面の構成から成瀬本には元和8年(1623年)には刊本が刊行されている小瀬甫庵『信長記』や同じく元和年間に成立している『甲陽軍鑑』の影響下に描かれている点が指摘されている。


成瀬家の言い伝えでは江戸初期の作というが、樹木や人物表情の描写から17世紀の後半延宝頃と考えられる。


大阪城天守閣や徳川美術館(公式サイトに解説)も「長篠合戦図屏風」を所蔵しているが、これらは成瀬家本を写したもので、自然描写から大阪城天守閣本は成瀬家本からさほど下らない時期、徳川美術館本は江戸時代後期に描かれたと推測される。


なお、名古屋市美術館本(文化庁オンラインに解説)は、合戦の情報量が少なく、絵画様式から見て成瀬本より古い17世紀前半元和から寛永前期頃の制作と見られる。


作者は大和絵系の絵師。元は六曲一双で長篠合戦図を構成していたと考えられ、これを六曲一隻にまとめつつ内容を充実させ、更に左隻に小牧長久手合戦図を加えたのが成瀬本だと推測される。






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最終更新日  2024年11月05日 07時28分56秒
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