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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年11月10日
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カテゴリ:江戸時代



11「方広寺鐘銘事件」


慶長19年(1614年)、大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与し、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けたのは崇伝とされる説が流布しているが、


方広寺鐘銘事件


慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。


且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。


8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。


また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。


国家安康」について五山の僧の見解を、江戸時代に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている[8]


東福寺


御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄)


(名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)


国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)


(国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)


天龍寺


御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)


(家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)


南禅寺


銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)


(銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。)


第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)


(何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)


相国寺


銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)


(銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)


建仁寺


銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)


(銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)


林羅山の見解と清韓の弁明


右僕射源朝臣家康


右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)


(右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)


右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)


(右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)


国家安康


国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)


(国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)


鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)


(鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。


諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)


君臣豊楽


君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)


(君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)


是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)


(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)


宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。


むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。


この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。


しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。


家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。


しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。



大坂冬の陣


豊臣方の準備


慶長19年10月2日(1614年11月3日)、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。


秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。


集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。


彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。


豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。


これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。


後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。


同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。






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最終更新日  2024年11月10日 07時49分14秒
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