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カテゴリ:戦国
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。 また千田は、真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたと指摘している。この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が平野口である。 慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から牢人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。 信繁は慶長5年(1600)に、第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。 12月4日(1615)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。 ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。 冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。江戸期の絵図では、付近に加賀築山や越前築山といった記載も見られる。 なお、昭和14年(1939)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が昭和40年(1965)に付けられたが、真田丸跡を特定するものではない。 真田丸の所在地は、上町台地東端の旧字名「真田山」(現・明星学園付近)に存在したのではないかと推定されている。 平成28年(2016)には、2月に明星学園テニスコートの外側に真田丸顕彰碑が建てられたほか、7月には島根県松江市で実態を示す新たな絵図の発見が、12月には初の学術発掘調査により遺構と推測される盛り土の発見がなされた。 大阪歴史博物館によって豊臣時代の上町台地周辺の地形が復元された。これによると、真田丸の北側には幅200メートルの谷があるため大坂城惣構えから孤立した立地にあり、大坂城の惣構えと隣接していたとする通説が誤りであることが判明した。 規模について、千田嘉博は通説の南北220メートル、東西140メートルよりも大きかったのではないかと指摘し[8]、坂井尚登によると小曲輪を含めると南北270メートル余、東西280メートル余(堀の幅は除く)と推定している。 半円形の曲輪で出口は後方と両脇に位置し、三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。 多くの絵図では、真田丸は大坂城に隣接した半円形の出丸(曲輪)として描かれていることが多かった。 しかし『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博によると、真田丸は半円形ではなく不定形の形の城であったとする。 これに対して坂井尚登は形態は正方形に近い五角形の平面体とする[3]。また『摂津 真田丸』では徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け北側からの攻撃にも対処した曲輪を備えて描かれていたことから、すなわち真田丸が惣構えに従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明した。 一方、藤本正行は、大阪城に面した北側の堀について真田丸が作られる以前から存在していた可能性があること、また、真田丸と惣構の間が土橋で繋がっていることが多くの絵図により確認でき、真田丸は孤立していないことを指摘している。 真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことが指摘されている。 出入口は東西二ヶ所あり、西側の出入口は惣堀に近い場所に設置されていた。敵がここから侵入すると、惣構え内と真田丸との十字砲火を受けることになる。 藤本正行は、『当代記』に「此丸ハ惣構江横矢俄二取手シ曲輪也」とあることから、側面攻撃を行うために築かれたとする。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年11月13日 06時52分53秒
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