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2007.07.21
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カテゴリ:読書・コミック
『トルコで私も考えた』高橋由佳利 集英社刊
原作者の高橋由佳利先生は兵庫県芦屋市出身。
1978年、集英社「りぼん」でデビューされた漫画家さん。
1994年、トルコ滞在中に知り合ったトルコ人男性と結婚。
男の子に恵まれ、現在はトルコと日本を行き来して生活。
『トルコで私も考えた』は女性コミック誌ヤングユーに連載
コミックスは4巻まで発行中です。
私の購入済みなのは、3巻まで。

私が砂漠物――アラブ物――BLを書いた後に見付けたもので、
残念ながら参考にはできなかったのですが、
現在のトルコの国を知るのに凄く参考になったのです。
ことばの他に考え方、食べ物、風俗習慣……。
普通に日本とトルコの文化の差異が面白いです。
それに、アラブ人とトルコ人の違い。
日本人は一緒こたにしてしまいますが、人種的には違うそうで、
ことばや習慣・文化も違うとか。
もっとも、その辺は詳しく書いても煩雑になりそうですが。
ただ、私の場合、服装を表すことばなどを統一しました。



日本とトルコの関係は明治時代からで、とても長いお付き合いです。
日本人はもっとその辺りのことを知ってもいいと思います。

【エルトゥールル号遭難事件】
1890年(明治23年)9月16日夜半、
オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、
和歌山県串本沖 紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。
この事件は日本とトルコの友好関係の起点として記憶されています。

木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造)は、
1887年に行われた日本の皇族 小松宮夫妻の
イスタンブル訪問に応えるため、
オスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣された。

1889年7月、イスタンブルを出港。
11ヶ月をかけて翌1890年6月ようやく日本に到着した。
横浜港に入港したエルトゥールル号の
司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、
6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、
オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

しかし、エルトゥールル号は出港以来積もり積もった艦の
老朽や物資・資金不足は限界に達していた。
多くの乗員がコレラに見舞われたため、
9月になってようやく横浜出港の目処をつけ、
遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側は台風の時期を
やり過ごすようにと勧めるも、制止を振り切って帰路についた。
このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、
インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)に
イスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示したい
皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、
出港を強行したのも日本に留まりつづけることで
オスマン帝国海軍の弱体化ぶりが
喧伝されてしまうことを恐れたのだと言われる。
遭難事件はその帰途に起こった。

1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は
折からの台風による強風にあおられ、
紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、
座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して
水蒸気爆発を起こし、沈没した。
これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする
587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。

このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、
数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。
灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、
総出で救助と生存者の介抱に当たった。
この時、台風により出漁できず食料の蓄えも
わずかだったにもかかわらず、
住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、
それに非常用のニワトリすら供出するなど、
献身的に生存者たちの回復に努めた。
この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が
救出され生還することができた。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から
大島村長の沖周(おきしゅう)に伝えられ、
沖は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を
神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、
県を通じて日本政府に通報した。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、
政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられる。
こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、
10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の
「比叡」「金剛」により
生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日に
オスマン帝国の首都イスタンブルに送り届けられた。

        





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Last updated  2007.07.21 11:29:44
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