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2009.01.20
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カテゴリ:政治・平和
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40年の1月18日は、安田講堂落城の日で17日に安田講堂落城 ~“あの日”から40年 学生たちのその後~を途中からで残念だけどだったけど観ました。

有名な諏訪中央病院の鎌田實さんが登場!
ボロボロだった諏訪中央病院を立て直し先駆的な地域医療の実践を行ったのは今井澄さん。
今井さんは東京大学の学生時代、全共闘運動のリーダーだった。

防衛隊長だった今井さんの「獄中日記」に「催涙弾のかかったおにぎりは辛くて食べられなかった」とある。
校内に立てこもったた学生は700人。強制排除のため出動した機動隊は8500人。学生の演説と警察の退去勧告。上空の取材ヘリ。
全共闘安田講堂攻防戦1969
講堂に向けて催涙弾と放水。学生側は火炎ビンと投石。

天声人語によると
先々の不利益を承知でとどまる学生らは命がけで職務にあたる機動隊員に必死で抵抗した。講堂に籠城した島泰三さんの著にある。「人生のくれ方に至っても、私は後悔していない。歴史のひとつの局面で、果たすべき義の一端を担うことが出来たのは、わが、人生の欣快である」
革命ごっことあざけるのは楽だがベトナム戦争もでも大学改革でも時代と社会に向き合う一途さはまぶしい。その「熱いバトン」を落とした世代の、勝手な感傷だろうか


私も涙する。
20億円もの使途不明金の為に闘った日大闘争、秋田明大さん(日大闘争時の日大全共闘議長。元・全国全共闘連合副議長)の今を観ていると逮捕されるべき人はほかにいると思い、安田講堂攻防は映像でしか、観たことがないけれど無念の気持ちとなる。

最首悟さんは東京大学教養学部の助手であったのに全共闘運動に参加、1967年から94まで27年間助手!「東大、文化の破壊者として見られた、その視線のすごさ、目で殺せるとすれば、何度殺されたか」今は和光大学名誉教授。

星子さんが生まれたことによって水俣病や障害者の作業所の運営にかかわっておられる。いまなお自分の生き方を突き詰めようとしている最首さん、星子さんが生まれて人生が本格的にスタートしたと。

最首さんの抗議に出ている現代の学生が「思想には興味がないといった」のには心底驚いた。国の締め付けで…

『安田講堂1968-1969』(中公新書)の著者、島泰三さん(62)。一連の闘争について「親世代ときちんと話せれば、違った結果だったかもしれない」と振り返った。
「殺す気はないが殺してしまうことはある。死にたくはないが死んでしまうこともある」
そんな覚悟で立てこもっていた。封鎖解除に先立つ昭和43年9月、日本大学で学生の投石を頭に受けた警視庁第5機動隊、西条秀雄巡査部長=当時(34)、殉職後2階級特進=が殉職していた。
当時は国内だけでなく世界もざわついていた。同年1月に南ベトナムで「テト攻勢」が、5月にはパリで「5月革命」が起きた。
「人類史の転換点だと思っていた」
東大理学部の学生だったが、解剖学などの講義を医学部で受けていたことから同部のストに参加。仲間に頼まれ「隊長」となり、安田講堂では大講堂1階の防衛を担当した。最後は暗闇で機動隊に追い詰められ、仲間と腕を組み仏でつくられた革命歌で1944(昭和19)年まで旧ソ連の国歌だった「インターナショナル」を歌った。
「若い人たちは時々、命がけになってほしい。命がけにならないとできないこと、見えないことがある」
公務執行妨害など3つの罪で懲役2年の実刑判
「やれることはやった。大学の教育は良くなっていないが、米国のベトナム戦争に日本が協力しないという機運につなげられた」
「若者は自分の正義しか見えないが、年寄りは相手の正義も見える。そのことを知らなかった。数を頼みに、盛り上がっていることがすべてだと思っていた」
「親の世代ときちんと話せていれば、学生運動や労働運動を当然の権利とした、違った社会をつくることができたかもしれない」


FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
「聴診器を温めて~ある医療改革者の遺言」(長野放送)

では、地域医療や在宅医療とはどんなものかを描き、高度に専門化した現代医療の問題点を問いかける。

≪あらすじ≫
 今井は、学生運動の闘士だった。大学紛争がピークに達した1969年、東大全共闘防衛隊長として安田講堂に最後まで立てこもって逮捕された。地域医療を志し、諏訪中央病院の医師となったのは1974年。つぶれかかっていた病院をたて直すとともに「病院のいらない地域づくり」をめざして、病気の予防活動に力を入れた。病院で診察を終えた後、毎晩のように八ケ岳山ろくの集落を回り、住民に減塩運動など健康づくりを呼びかけた。

 彼は非常に心配りの細かい人だった。それをあらわすエピソードに、冬は聴診器を手でこすって温めてから、使っていたという。患者の立場にたった医療を常に心がけていた。そうした地道な活動が住民の信頼を得て、諏訪中央病院は地域医療の拠点となっていった。

諏訪中央病院で診察する今井澄医師
 東大紛争から8年後、彼の懲役刑が確定した。大勢の患者に見送られ、内科の医学書を携えて静岡刑務所に向かった。今井は外科の医師だったが、地域医療には不可欠な内科の知識を、服役中に習得したいと考えたのだった。

 その後、諏訪中央病院に復職。1980年、40歳の若さで病院長に抜擢された。病院経営が軌道に乗ると病院長を8年で引退、鎌田 實医師にバトンタッチした。

 1992年、旧社会党から参議院議員に初当選。その後、民主党に移った。急ピッチで進む高齢化社会に対応した医療、福祉政策の充実に尽力した。2000年、胃がんを患ってからも、日本の医療を変えようと精力的に政治活動を続けた。

 昨年7月、国会が閉会すると茅野市の自宅に戻った。「人は自宅で生まれ、自宅で死んでいくのが自然」といつも語っていた。痛みを和らげる緩和ケアを受けながら、残された時間を家族とともに過ごした。

 「患者の胸に冷たい聴診器を当ててはならない」──その志は諏訪中央病院の若い世代に受け継がれている。

今の医者はパソコンばかり見ていて聴診器なんか当ててくれない。患者をさわらない。

■安田講堂落城 ~“あの日”から40年 学生たちのその後~
昭和44年1月18日、大学紛争のさなか、学生たちが立てこもった安田講堂の封鎖解除が始まった。8500人の機動隊による激しい放水と数千発に上る催涙弾が浴びせられた末に、安田講堂は翌日落城。350人以上が逮捕されたのである。
東大医学部のインターン制問題に端を発した東大闘争とは何だったのか?
NHKアーカイブスには、この闘争に関わった学生の10年後を追った番組が残されている。学生運動から抜け出せずその後の生き方を悩み苦しむ人、運動から遠のき地域医療に生きがいを見つける人・・・ 若者たちのそれぞれの生き様が記録されている。






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Last updated  2009.01.21 06:09:00
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