カテゴリ:政治・平和
はだしのゲンに込めた中沢啓治さんの思い
世界遺産スイスベルンのバラ園 昨日は日にお亡くなりになったはだしのゲンの作者中沢啓治さんの番組で続編を書き始められていたのを知りました。 中沢さんは漫画を書くのは一人でとアシスタントを使うのは好まず、奥様がお手伝いされていたようです。 白内障などで書き続けられなくなり原稿を寄贈した中沢さん、 その内容は…上京した中沢さんが理髪店に行き広島から来たというと、放射能がうつると追い出されたこと。 職場で広島カープのファンだというと静まり返ってしまったこと。 原爆の被害も米軍により、報道することもできず、治療もしないのに調査だけした ABCC原爆傷害調査委員会 足尾鉱毒事件、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、みな根は同じでしょう。 同じ日本人から差別された中沢さんを飲み屋のおかみさんが私も東京大空襲のことを書きたいと励ましてくれたそうです。 被ばくしたお母さんの遺骨はほとんど残らず、遺骨まで原爆に奪われたのです。 安らかにお眠りくださいと言うがそんなことありえないと、当然でしょう。 中沢さんは 引退表明に伴い制作を断念。「ゲンのその後は読者自身が考えてほしい」と語っている。同年12月8日、中沢は手元に残っていないデビュー作『スパーク1』を除く所有するすべての漫画の原画などを広島平和記念資料館に寄贈すると発表した。その中には幻となった『はだしのゲン』第二部の原画も含まれている[2]。 2011年(平成23年)には原爆漫画の第一作「黒い雨に打たれて」の映像化を準備。同年には、初めて広島平和記念式典に出席した[3]。 国家元首だった昭和天皇の戦争責任を主張しているため、戦後も昭和天皇を激しく嫌い、その憎悪から天皇制の廃止を強固に求めている[9]。天皇に対する中沢の怒りは、一切の妥協を許さないまでに厳しく、広島に行幸した天皇をさして『人間の神経をもたない冷血人間』と評するほどであった。中沢いわく、「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う」[10]、「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ」[11]。また日本の戦争責任者の昭和天皇が生き延びた事がイタリアの戦争責任者のベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされてイタリア国民に石を投げつけられる末路と正反対である事を比較している[12]。しかし中沢は作中で天皇制批判を描いても嫌がらせがなく拍子に抜けたと言い、自伝や週刊誌や新聞で天皇制批判を載せている。『はだしのゲンへの手紙』では読者に「天皇は憎いですか?」という質問に対し、「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」と返答しており、一方、昭和天皇が1975年(昭和50年)の日本記者クラブで「戦争中の事だからやむを得ない」と失言した事に対しては「被爆者に対して土下座して謝って欲しかった」と述べている[13]。 Wikiより ミュージカルはだしのゲンの感想 76年の三國錬太郎主演の映画も後にテレビで観ました。この戦争には負けるという父親が非国民扱いされること、その汚名、迫害から逃れるために海軍に行くという長男、辛くても苦しくても明るく生きていこうとするゲンの姿 追記 中沢さんはよくぞゲンを描いてくれました。最近は講演されていると聞いていたのに、さみしいことです。 ベン・シャーンが描いてくれた第五福竜丸の船長久保山愛吉さんの絵も思い出されます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.12.29 23:07:39
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