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2023年07月30日
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カテゴリ:音楽
「梅雨明け十日」は一年で最も暑い時期といわれます。亭主が住む関東は、7月半ばの梅雨明けから既に十日以上経ちましたが連日の猛暑で、しばらくは収まる気配もなし。まさに本格的な真夏の到来です。はじめは「猛暑上等、クラフトビールがうまい!」と開き直っていたものの、流石に暑さ疲れが溜まってきており、ここにきて食欲も減退気味(ダイエットにはちょうどいい?)。

この季節になると思い出すのが、大昔に「みんなのうた」でかかっていた「なつやすみのおさかな」。(調べてみると1996年8月-9月に流れていたとのことで、もう27年も前でした。)これをループで聴きながら海の中ならぬ冷房の中に浸ってボ〜ッとするひとときです。

[なつやすみのおさかな]


閑話休題。以前にこのブログでもご紹介したジュスタン・テイラーのハープシコード・ソロアルバム3枚、どれも聴き応えがありましたが、今日はその中の「ラモーの一族」についてです。



ラモーといえば、これまで亭主が知っていたのはジャン=フィリップただ一人。1783年生まれということで例の1785年組3人(バッハ・ヘンデル・スカルラッティ)とほぼ同世代です。ところが、件のCDに付いてきたライナーノートによると、ラモーは当時の例に漏れず音楽家一族の出で、親兄弟もほぼ全員がその職にあったようです。

アルバムでは、一族を代表するジャン=フィリップ・ラモーの作品に加え、弟のクロード、息子のクロード=フランソワ、さらにはクロードの息子ラザールといったフランス革命前後の古典派時代にいたる一族の系譜をたどりながら、彼らの作品も併せて収録しています。さらに、亭主には初耳の音楽家ジャン=フランソワ・タプレ(c.1738-c.1819)の「未開人」のテーマによる長大な変奏曲も挿入され、最後にはドビュッシーの「ラモー頌」(「映像」第1集から)のピアノ演奏で締め括る、という凝ったプログラム。

もう一つの楽しみは録音に使われた楽器で、ハープシコードはスコット・ロスのお気に入りである南仏アサス城にある18世紀製のオリジナル楽器。ピアノもパリのシテ・ド・ラ・ミュジークにある楽器博物館所蔵で、19世紀末にエラール社で製作されたものを使用と、こちらもオリジナルです。テイラーの演奏は、亭主がこれまでに聴いたどの演奏家にも増して「自由奔放」な感じで、プログラムの妙もあって大いに楽しめる一枚でした。

さらに、テイラー君自身の手になるライナーノートも大変秀逸です。せっかくなので、以下に亭主訳でご紹介しておきます。

ラモーの一族
                          ジャスティン・テイラー
「真の音楽は心の言葉である1」。
プライバシーを大切にする大衆劇場人、臆病でありながら親切、知識人でありながら宮廷詩人でもある — 指先まで本能的な音楽家でありながら、霊感に満ちた理論家。ラモーはそんな人物であった。「幼い頃から数学的な直感に導かれて、自分の運命と思われる芸術(音楽)の研究に励み、……その真の原理を学びたいと願っていた。2

ジャン=フィリップ・ラモーは、1683年9月25日にディジョンで生まれた。母は小貴族の出身で、父ジャンはオルガニストであり、幼い頃から息子の音楽教育に力を注いだ。ジャン=フィリップは、アルファベットが読めるようになる前から楽譜を読むことを学び、末弟のクロードと音楽の早熟さを分かち合った。二人は共に音楽家になる運命にあった。若いジャン=フィリップは早くにイタリアを訪れた後、続く20年以上にわたりラングドックとプロヴァンス地方を旅する旅団のヴァイオリニストとして、そしてアヴィニョンとクレルモン=フェランのオルガニストとして冒険的なキャリアを歩んだ。その後、数年の間パリに居を構え、1706年に「クラヴサン作品集第1集」を出版した。ラモーは前世紀の音楽的アプローチを意識的に取り入れ、その遺産を誇る一方で、すでに驚くべき斬新なスタイルを開示していた。

その後、ラモーはパリを離れ、ディジョン、リヨン、そして1715年からはクレルモン=フェランで29年間の契約を結び、数年間を地方で過ごしたが、数年後の1722年、39歳の時にようやくパリに戻った。彼は音楽家で歌手のマリー=ルイーズ・マンゴーと結婚し、4人の子供たちとともに満足した生活を送っていたようだ。1724年と1728年には、さらに2つのクラヴサン曲集が出版されたが、それらは大胆な和声と技術的な革新、機知と詩情に満ちている — ハープシコードはまさにラモーの天才を表現する手段だった。

ラモー家の歴史
後世の人々はジャン=フィリップを拾い上げているが、彼は一族に数多く存在する音楽家の一人に過ぎない: ジャン、クロード、ラザール、クロード=フランソワ......ラモーの名を持つ作曲家は数多く、彼らの作品は再発見に値する。クロード=フランソワ・ラモーは、ジャン=フィリップとマリー=ルイーズの長男で、1727年8月3日に生まれた。この「ラモー氏(息子)」による第1組曲は、舞曲と性格的な小品の詰め合わせで、作曲年代はわからない。この陽気で華麗なジーグ「ラ・フォルクレイ」は、もう一人の重要な音楽家一族フォルクレイ家のことを指している。

ジャン=フィリップより6歳年下のクロード・ラモーは、ディジョンでオルガニストとしてのキャリアを積んでいた。クロードはクロード=フランソワの名付け親でもある。クロードのメヌエット・バロゼは、素朴で牧歌的な曲で、1750年代頃に出版されたカンタータLe buveur devenu amoureux(酒飲みが恋人になった)から採られている。「バロゼ」とは、このカンタータに描かれているブドウ畑の収穫人の服装のことである。クロード・ラモーには2人の息子がいた: ディドロの小説『ラモーの甥』に描かれたジャン=フランソワと、クロードの再婚相手の息子で音楽家となったラザール・ラモー(1757年生まれ)である。ラザールはフランスのいくつかの町でオルガニストとして活躍していたことがわかっているが、詳しい経歴は不明なままだった。革命前夜の1788年、彼は「3つのソナタ」を出版し、クラヴサンの栄光の最終段階を古典的な様式で輝かせている。

ラモーへのオマージュ
大通りの市の世界から生まれ、コメディー・イタリエンヌで上演された「未開人の踊り」は、大成功を収めた。ラモーはその数年後、オペラ『みやびなるインド』でこの曲をオーケストレーションし、ジャン=ピエール・ギニョン、ミシェル・コレット、ジャン=フランソワ・タプレイら多くの作曲家もこのキャッチーなメロディーを借用した。

ハープシコードのためのラモーの作品は、2世紀近くも顧みられることのなかった彼の悲劇的なオペラとは異なり、出版以来、歴代のハープシコード奏者、そしてピアニストたちによって演奏され続けている。19世紀を通じて、ラモーはまだ人々の記憶に残っている数少ないフランス・バロックの作曲家の一人であった。その証として、1861年にガルニエ座の前庭にラモーの銅像が建立され、さらに重要なこととして、1895年以降、サン=サーンス、ダンディ、ボルドの3人によって、ラモーの全集編集プロジェクトが進められた。ラモーの音楽に対する音楽家や一般の人々の関心は益々高まっていった。1903年、パリで初めて、ラモーのオペラ作品「ラ・ギルランド—花飾り、または魔法の花」が全曲上演された。客席にいたドビュッシーは、「ラモー万歳、グルックよ去らば!」と叫んだという。ドビュッシーは1905年に「ラモー頌」を作曲した。サラバンド風に書かれたこのオマージュには、厳格さはないもののラモーの強い影響が感じられる。新鮮な音のニュアンス、喚起的なソノリティ、詩的なハーモニーの探求は、2人の作曲家を隔てる時間の距離にもかかわらず、両人を結びつけているようだ。ドビュッシーは、ラモーの和声研究によってもたらされた遺産の計り知れない価値を早くから認めていた: 「ラモーには理解しようとする欲求、芸術家にはめったに見られない欲求が生まれつき備わっていた。彼は、現代の和声全体が通らなければならない道を、彼自身がそうであったように、探求したのである。3

楽器
2019年夏の暑い晴れた日、私はアサス城とそのハープシコードに出くわした。外の眩しい日差しと喧騒から一転して、ハープシコードが置かれた静謐で親密なサロンが現れた。ラモー自身が弾いたかもしれない鍵盤に指を置くのは貴重な体験だった。リヨンの製作者、ドンゼラーグの作とされるこのチェンバロは、18世紀の最初の30年ほどのもので、フランスのハープシコードの中でも最も注目に値するものであることは論を待たない。このハープシコードは、単なる鍵盤というだけでなく、真の対話ができる師匠でもある。

ドビュッシーの「ラモー頌」では、パリの音楽博物館に所蔵されている1891年製の素晴らしいエラールピアノを使うことにした。その暖かな音色と妖艶な響きは、この音楽的オマージュの理想的な伴侶となった。これらの古い楽器は、その特別な響きのおかげで過去の時代とのつながりを新たにし、それらが体現する歴史を通して私たちを鼓舞することができる。

「彼の心と魂のすべてはハープシコードの中にあった。ひとたびその蓋を閉めてしまえば、家には誰もいなくなる。4

蓋は開けたままにしておこう。

注)
1. J.-P. ラモー, 「音楽実践の規範」, パリ, 1760, Ch. 7, Section 14.
2. J.-P. ラモー, 「和声原理の証明」, パリ, 1750, p. 110.
3. クロード・ドビュッシー: 「J.-P. ラモー」(1912年11月)、「クローシュ氏」その他文集にに所収(パリ、ガリマール 1971, p. 205)[邦訳:音楽のために―ドビュッシー評論集 (1977年)、p. 207]
4. アレクシス・ピロン、M. マレへの手紙、1760年。









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最終更新日  2023年07月30日 21時30分48秒
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