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2013/09/21
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こんばんは

昨日、今日と見事なお月様ですね。お月見はされましたか・・・・・・。今年は中秋の名月の日が満月だったんですね。次は8年後らしいですよ。

 

さて、幕末~明治に生きた浜田彦蔵という人のことをご存知でしょうか。今日はほとんど知られていませんが、幕末の影の功労者といえる人物のお話しをしましょう。

浜田彦蔵(ジョセフ彦)は、神戸には明治8年(1875)から明治21年(1888)まで居住していました。現在、生田区中山手通六丁目にあるマンション前の植え込みの中にジョセフ・ヒコの旧居宅跡の碑が建てられています。

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花ジョセフ彦(幼名を彦太郎のち浜田彦蔵)物語

1837年、播磨国加古郡阿閇村古宮(現兵庫県加古郡播磨町)で生まれます。幼い頃に父を、13歳の時に母を亡くします。その直後に義父の船に乗って海に出て、途中で知人の船・栄力丸に乗り換えて江戸に向かう航海中、その船が紀伊半島の大王岬沖で難破。2ヶ月太平洋を漂流した後、南鳥島付近でアメリカの商船オークランド号に発見され、救助されます。

子供の頃に両親をなくし、乗った船が難破して2か月太平洋を漂流し、アメリカの商船に助けられる。これだけでもう、何人分もの激動人生だと思うのですが、これがまだほんの序章なのです。

その後、救助してくれた船員たちと共にサンフランシスコに滞在します。アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出て、1852年5月にサンフランシスコを出発し、7月に香港に到着します。そこから、東インド艦隊長官ペリーの船に同乗し、日本へ帰還するはずでした。

あのペリーといっしょに日本に行くはずだったって驚きですね。1852年って、ペリーが浦賀に来る前年だから、ペリーの船に乗せられていっしょに来ていた可能性があったわけです。

しかし、ペリーがなかなか来ず、その間に香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民の一人)の体験談を聞き、自分達がアメリカの外交カードにされるとの懸念から、10月にアメリカに戻ることになります。

これはすごいエピソードですが、香港で出会った「力松」という日本人がモリソン号事件の漂流民というのもすごいのですが、その体験談から、自分が<アメリカの外交カードにされる>ことを悟って、日本の不利にならないようにアメリカに戻ったわけですから、このとき浜田彦蔵は歴史を少し動かしたのかもしれませんね。

サンフランシスコに帰った後は、下宿屋の下働きなどをしていましたが、税関長のサンダースに引き取られました。その後、ニューヨークに赴き、1853年9月には日本人として初めてアメリカ大統領(当時はフランクリン・ピアース)と会見した。また、サンダースにより、ボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けることになりました。

そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り、日本への望郷の念が強まった彦蔵は、キリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となりました(1858年日本人として初めてアメリカ市民権を取得)。その翌年の1859年に駐日公使ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、その年に長崎・神奈川へ入港し、9年ぶりの帰国を果たしました。

翌年2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開きます。しかし当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じて1861年10月に再びアメリカに戻りました。

再度アメリカに帰った後は、1862年3月にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見しています(日本人で唯一リンカーンと握手した人物といわれているそうです)。同年10月に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就きますが、1863年11月に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めました。

1864年7月岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅しました。
ここで発行した「海外新聞」(当初は「新聞誌」という名前だったらしい)が、<日本で最初の日本語の新聞>となったわけです。今でも、早稲田大学図書館にその現物が収蔵されているということです。

その後も、ヒコは長崎で英国商館と鍋島家との間に入って高島炭坑の共同経営を成立させたり、大阪造幣局の設立に尽力したりするなど、文明開化の日本で活躍しています。

また、1870(明治3)年12月には、郷里へ立ち寄って両親の墓を注文し、翌年除幕式を行っています。この墓は、裏面に英文が刻まれていることから「横文字の墓」と呼ばれ、蓮花寺(播磨町本荘)境内に立っています。

下の写真の碑は、神戸に来た外国人が有名な兵庫大仏へ多数参拝に訪れることから、明治25年ごろ、能福寺第19世住職 加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して、寺の縁起を英文で作ったもので、わが国最初の英文碑であるといわれています。

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1897(明治30)年12月、60歳で波乱に満ちた生涯を閉じたヒコは、東京青山の外人墓地に葬られました。その石碑には「浄世夫彦之墓」と刻まれています。
最後は外人としての扱いでしたが、ジョセフ・ヒコの心は最後の最後までずーっと日本人だったのではないでしょうか。

《続く》






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Last updated  2013/09/21 09:01:48 PM
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