カテゴリ:歴史ウォーキング岐阜
1567年に織田信長がこの城を攻略し、城主となりました。 信長は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、 「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。 1576年に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、 「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎ、 楽市楽座の保護など、当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変賑わったということです。 しかし、1600年関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫 秀信が西軍に味方したため、 東軍に攻められ、激戦の末落城しました。 そして、天守閣や櫓は加納城に移されてしまいました。 再現された現在の岐阜城は昭和48年の大河ドラマ「国盗り物語」で注目されました。 その効果で年間の入場者が40万人を超え、観光スポットとして有名になりました。 岐阜城は夜間も営業しており、展望台からは360°の夜景を楽しむことができます。 岐阜城パノラマ夜景2015年 4月29日(水)~5月6日(水)の毎日 午後9時30分まで 宝石箱をひっくり返したような輝きは、夜景スポットとして人気を集めているそうです。
下山の時間がきました。 ロープウェイの山上駅まで、来た道とは若干違う道を通って降りて行きます。 金華山ロープウェーの山頂駅近くに「千成瓢箪発祥の地」と呼ばれる場所があります。 ここは織田信長が稲葉山城を攻め落とした際に、 尖兵をつとめた木下藤吉郎(秀吉)が潜入に成功した場所で、 蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か七名を従えて、 岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、 薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられています。 この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、 鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたといわれています。 以来、千成瓢箪発祥の地とされているということです。
尾張・美濃を拠点とする新興勢力・織田信長と、 安芸の古豪・毛利家の対立は、播磨国の諸将を二分しました。 御着城の小寺家は、織田方に加担することを決断。 そして、官兵衛は小寺家の代表として、信長に面会するため岐阜へと赴きました。 そこで官兵衛は、臣下の礼への見返りに、信長から宝刀「圧切(へしきり)」を賜ります。 そしてこれ以後、信長の重臣・羽柴秀吉とタッグを組んで、 対毛利との戦いが続くこととなります。 1575年、官兵衛30歳のときでした。 岐阜城のあとは、鵜飼いで有名な長良川に行って見ます。 天守閣からも、鵜飼いが行われるときの観覧船が停泊しているのが見えていました。
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Last updated
2015/04/06 05:31:19 PM
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