カテゴリ:歴史ウォーキング岐阜
犬山城下町本町通りを歩いていると、柏の文字の暖簾がかかったりっぱな住宅が目に止まりました。中を見学できるということなので入ってみました。 この住宅は旧磯部住宅といって、江戸時代から「柏屋」の屋号で呉服商を営んでいた磯部家の住宅です。 【旧磯部家の住宅】 とても珍しい屋根で『起り屋根(むくり)』といい、上方に対して凸形になった曲線形の屋根をしています。 また、このように正面側2階に天井高の低い部屋をつくり、壁を挟んで背面側を小屋裏とする造りを犬山ではバンコ2階と呼んでいるそうです。 ここは通り庭、京都の建物のように奥に長~い建て方になっています。 間口が狭く、おきゅきが広い「うなぎの寝床」のようで、中庭、裏座敷、土蔵などもあります。 「うなぎの寝床」には町衆のの知恵が息づいています。 何故このような敷地になったのかというと、江戸時代の地金は間口の広さで決まっていたからということです。 ここは座敷、床の間の手前の引き戸に仏壇がしまってあるということです。それにしてもきれいに保存されていますね。 【裏座敷】 裏座敷は中庭奥に建ち北渡り廊で続いています。切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、釣床(つりどこ)付きの8畳の主室と西側に6畳の次の間を配し、南、東側に矩折れ(かねおれ)に土庇(つちびさし)と濡れ縁を廻しています。
幕末から明治初期にかけて建てられたもので、その後数度の改修が施されていたものを磯部家から犬山市に寄贈を受け保存されています。現在は、国の登録有形文化財に指定されています。
本町通りを抜け、犬山市役所の近くまで足を伸ばすと“愛宕神社”があります。 【愛宕神社】 何故ここに来たかというと、この場所は犬山城を築いた織田信康の居城だった木下城があったところなんです。 だから、社号標には「愛宕神社」、石碑には「木ノ下城跡」とあります。 木ノ下城は、室町期の1469年尾張国守護・斯波氏の家臣だった織田広近が築いたお城。この時代は応仁の乱のただ中にあたり、日本国中が情勢不安に揺れていたころで、尾張も国境の防衛力強化を迫られ、美濃との国境にあたる犬山では、木ノ下城が美濃への警戒とけん制にあたっていたのでしょう。 その後、1537年織田信康が美濃との国境をなす木曽川のほとりに犬山城を築き、拠点を移した時、この木ノ下城は廃されました。 犬山城は、断崖と木曽川に守られた天然の要害。一方、木ノ下城は平地にあり、断崖や大河はない。戦乱の世の城としては丸裸に等しく、ひどく心細く、国境という油断ならぬ土地であればこそ、より堅牢な城へ拠点を移す必要に迫られたのでしょう。 木ノ下城の廃城から約70年後の1605年、鍛冶屋町の鍛冶兼常が愛宕山長床坊で修行して「長泉坊」と号し、自宅裏に愛宕神社を勧請しました。これが愛宕神社の起こりとされています。ほどなく犬山城主・小笠原吉次から木ノ下城跡を寄進され、そこに神仏習合の「愛宕山長泉寺延命院」を建立。明治維新の神仏判然令を受けて廃院し、愛宕神社が残され現在に至っています。 さすがに城下町ですねぇ、あちこちに歴史の足跡が残っており、またしっかりと守られているところが素晴らしいですね。
《続く》
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Last updated
2015/05/03 06:11:03 PM
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