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2015/05/06
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岐阜県お城巡り 初めての土地でお城を巡りました。

お城は、それぞれに特徴があり、それぞれの顔を持っていました。 それは、その時代のその土地を映し出したものなのかもしれません。

 

岐阜県には何故これだけ多くのお城があるのか、調べてみました。

美濃国不破郡、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町松尾地区に当たるところに設置された関所で美濃不破関(みのふわのせき)があります。

古くは壬申の乱(672年)の勃発にあたって、大海人皇子軍が不破関を固め、東国に援軍を求めて不破関を通過しようとした大友皇子軍が川を挟んで対峙しました。大友皇子軍は、ついにこの関を通ることができず、東国に援軍を求めることができず敗れました。このことが『日本書紀』に記されているということです。

壬申の乱後、不破道の重要性から関が設置され、大宝令(701年制定)の中に東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関と共に東山道の美濃不破関として定められ、この三つの関は「三関(さんかん)」と呼ばれるようになります。

このように、この地域は近江から濃尾平野へ出る軍事・交通上の要衝で、昔から栄えていた地域でもあります。

そのため「物流」の要所として繁栄し、中世では「京都(公家の都)」と「鎌倉(武家の都)」を結ぶ一大拠点でもありました。
つまり、この地を上手く治めることができれば「京都~鎌倉」の「交易、物流」を支配できるということであり、多くの「武家」「神社仏閣」が乱立台頭し、 結果「収めずらい地」になりました。

しかし、逆にここを治めることができれば「天下」は制することができるということで、この地は「大規模な戦」の場となってきたということです。

「源平合戦」では「木曽義仲」は「鎌倉軍」が「美濃不和関」に入ったと聞き狼狽し、近江、美濃国境で戦い敗死。 「南北朝」では名将北畠顕家を「足利軍」は「不和関を通さじ」と背水の陣で望み勝利を得た「青野原の戦い」、「戦国期」には「天下分け目の関ヶ原」と「武家」はここを「要所、防衛拠点」と考えてきたようです。

もちろん、あの織田信長も同じように考えていたのでしょう。

「美濃を制するものは天下を制す」と、いろんな武将がそれぞれの思いを持って、美濃の地に居城を構えたということですね。

【大垣城】

P3120030.JPG

 【岐阜城】

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 【郡上八幡城】

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 【犬山城】

IMG00188.jpg 

【墨俣城】

P3140203.JPG

急な階段に低い天井、ここで生活はできないなあと多くの方が感じるのではないでしょうか。

当時はエレベーターもない時代。重層の天守で生活するのは難しく、城主は天守とは別に城内に建てた御殿に住むようになりました。特に江戸時代以降は城主は天守では生活していなかったといいうことですね。

お城の中で最も象徴的な建造物と言える「天守」、織田信長の安土城に代表されるように「権力の象徴」でもあります。その象徴であるお城を中心に、その土地の文化が生まれ、現在も脈々とその文化が息づいていることに触れることができました。

お城は日本の象徴であり、またその土地の象徴として、これからもその土地に暮らす人々と共に生き続けることでしょう。
 


《完》






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Last updated  2015/05/06 06:27:47 PM
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