以下は孫引きです。
江戸時代の死亡年齢はどれぐらいなのか。江戸市中の出土人骨の調査によると、男39・9歳、女40.・4歳という結果があるそうだ。ところが意外なことに、大名家の人間の死亡年齢はこれよりもはるかに短命だった。本来なら農民や町人よりも栄養や生活環境もよく、医療や看護も行き届いていたはずの大名家の子弟がなぜ短命だったのか。
以下、徳川五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保を祖とする7代にわたる柳沢家の過去帳の記録から、正室・側室を含めた子供を産んだ者の人数と、生まれた子女の数およびそれらの者の平均死亡年齢を記します。
吉保、6人(正室・側室)から15人(生まれた子女の数)。24.2歳(平均死亡年齢)。
吉里、8人から16人。 29・6歳。
伊信、14人から22人。22・5歳・
保光、16人から38人。14・9歳。
保泰、6人から20人。 19・2歳。
保興、3人から8人。 9・6歳。
保申、3人から3人。 10・3歳。
当時(江戸後期)の飛騨(岐阜県)の山奥の村の農民の例では、男28・7歳、女28・7歳。また諏訪地方の人別帳からは、男42・7歳、女44・0歳だったことがわかっている。最初の江戸市中の男女の平均死亡年齢と比較しても、柳沢家は早死にしている。これは何も柳沢家に限ったことではなかった。大名家はおおむねこうした傾向にあった。
その原因として考えられるのは、大名家の乳児に接する乳母たちが使用していた白粉(おしろい=含鉛化粧品)による鉛中毒だと推察されるそうです。江戸後期になると、町人の間にも化粧品が普及してくるが、これらはいずれも鉛あるいは水銀を原料とするもので、明治以降になってから、これらが脳膜炎などの慢性鉛中毒を起こすことが明らかになっている。
柳沢家の妻妾それに乳母や侍女たちは、顔はもとより首から胸にかけてまで白粉をたっぷりと塗り込めていた。これらが彼女らの体内に侵入し、それをそばにいて直接吸うことや母乳として子女の体内に侵入し、鉛毒症を引き起こすことで、乳幼児の時の死亡率が非常に高くなることが死亡年齢が低くなる原因と考えられるのです。生まれた家柄が良いと逆にこんな危険な目に遭うこともあるのです。
参考:文藝春秋編「江戸こぼれ話」中、立川昭二「元禄人のカルテ」から。1996年9月初版文春文庫p62
いろいろ興味深いことが書かれた本です。