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「かるた会の想い出(1)」 2015年12月9日の記事です 嵐吹く三室の山のもみじ葉は 龍田の川の錦なりけり (能因法師) 百人一首の読み札にお坊さんの絵があったのを覚えています。 もうひとつ ちはやふる神代も聞かず龍田川 からくれないにみずくぐるとは(在原業平) 業平さんはお公家さんでしたか? 男前で女性にもてたとか? お隣に国鉄にお勤めの水谷さんがお正月が来ないうちから 若者を誘ってどたんばたんのかるたとり、 たびたび仲間入りさせてもらいました。 平和な時代の楽しい思い出です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さっちゃんのブログには「かるた会」の話がしばしば出てきます。 今日の「水谷さんの思い出」も「藍の風」には掲載されていない作品です。 まだ、父も母も元気だった小学生低学年の頃、 正月には必ず百人一首をやっていました。 勿論、読み手は父で、その名調子は大好きでした。 その頃、百人一首のかなりの歌は暗記していたように思います。 何故か一番先に覚えて私の得意札になったのは 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む 」 でしたが、その後 「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」 等も大好きな歌になりました。 百人一首で「ぼうずめくり」等、家族皆で賑やかに遊んだ日のことは 今も記憶に残っています。 syun ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「水谷さんの思い出(1)」 下駄屋が五百円で建てたという新築だが、 二階建て二軒続きの長屋で、間口の広い方が私の家で、 狭い方に水谷さんご夫婦が住んでいた。 私が二歳か三歳ぐらいの時、裏庭で水谷夫人に抱いてもらって、 母と三人で写っている写真があった。 多分ご主人が写したものだろう。 水谷さんはたしか静岡の出身で、 夫人も言葉遣いから徳島の人でないと思われた。 当時彼は鉄道にお勤めで、 明るく朗らかな、ひと付き合いの柔らかい紳士であった。 ご夫婦とも賑やかなことが好きらしく、 毎年お正月が来ると職場の若い人たちを招いて、 かるた会を楽しんでおられた。 それも世間では猫の手も借りたい歳末の大忙しの時、 お昼からドタンパタンと賑やかなお正月気分の歓声が続くのだった。 なにぶん壁一重の向こう側で数人の元気のいい若者が 思いっきりドタンパタンとかるたの取り合いっこの騒ぎは 安普請の土台から響いてくる。 こちらは洋服商でお正月用の晴れ着の注文を何着も抱えて、 年末には夜なべ仕事が続き最後は徹夜となる忙しさである。 子ども心にも月給取りはのんきでいいなあと羨ましく思っていた。 待ちかねた年が明けて家族三人ゆったりと お正月気分を味わっていると、 お隣からかるた会のお誘いが来る。 若者の手が揃わない時など誘われてメンバーに加わる。 そんな時は読み役はたいてい声のよく通る父の役割である。 若者たちの仲間に入れてもらって私は緊張する。 色々とかるた取りのテクニックなど教えてもらって楽しい一夜を過ごす。 お正月三が日が過ぎると、、静かな家族だけのかるた取りを楽しみ、 百人一首のあれこれや読み方など教えてもらったりしていた。 父のお気に入りの札は寂連法師の 「村雨の露のまだひぬまきのはに霧立ちのぼるあきのゆうぐれ」 母のお気に入りは紀友則の 「久堅のひかりのどけき春の日にしづ心なくはなのちるらん」 水谷夫人のは紀貫之の 「人はいさこころもしらず故郷ははなぞむかしのかに匂ひける」 そして私が母から最初に与えられた札は 「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも相坂の関」 蝉丸 「しるもしらぬも」と、この札は他の札と比べて見つけやすい気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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