『日本共産党百年史』を読む(その3)
『日本共産党百年史』を読む(その3)『日本共産党百年史』を読んでます。今回で、三度目ですが。一、9月17日「赤旗」に志位和夫委員長の記念講演が掲載されました。『百年史』はタブロイド判57ページと、百年の歴史ですから、大部なものじゃないですか。目を通すだけでも、私などはだいぶ時間がかかったんですが。志位委員長の講演は2時間余、共産党のホームページから視聴できるんです。百年の歴史を、その57ページの中身を、2時間余にまとめたこと自体、すごい努力だと思いませんか。しかも、問題点の掘り下げや、独特にまとめていて、新鮮に中身が伝わってくる講演です。百年の全体をとらえる上で、大きなプレゼントだと思います。二、あとは、「第一章日本共産党の創立と戦前の不屈の活動」についてです。前回にも、紹介した感想なんですが。1、日本の封建制社会は、身分制度の歴史でもありましたから、「お上にもの申す」などということは許されなかったんですね。群馬の杉木茂左衛門、郡上一揆などをみても、税が過酷すぎるとお上に意見を述べるだけで、家族や村人までもが連帯責任で処罰されるわけですから。1922年7月に創立された共産党の綱領草案の第一にあった「天皇絶対の専制政治をやめさせ、国民主権の政治をつくる民主主義革命」ですが、今から見ても正しいじゃないですか。問題は、当時の社会にあって、この正しい主張を掲げることがどれだけ困難だったかということですね。いわば、今日のロシアの国内で、ウクライナ侵略戦争反対の主張を掲げることじゃないですか。中国や北朝鮮で民主主義の主張を掲げることじゃないですか。何百年とつづいてきた「お上に盾つくことは、死罪を申し付ける」の歴史のなかでのことじゃないですか。どれだけの勇気と覚悟を必要としたか。戦後の民主憲法のもとに生まれた私などにとっては、言論・思想信条の自由は空気のように当たり前になってますが、80年前までは、まったく違っていたということです。この今日あたりまえな歴史認識に立ったとき、今でも『共産党はなくなった方が良い』などと言ってる政党幹部がいるわけですが。これは共産党の名誉というより、歴史と科学に対する屈辱するものじゃないですかね。公人としての資格なしだと思うんです。2、そうしてみると、明治維新から自由民権運動、大日本帝国憲法、大正デモクラシー等、日本の近代化をめぐって民主主義の流れがあったと思うんです。その民主主義的な社会の流れの中から、社会主義や共産主義、さらに共産党がつくられた。この歴史のなかから、どんな苦難があろうとも、共産党の必要性ということが問題になった。『日本共産党の70年史』などは、その点をかなりリアルに探っていると思うんです。プロレタリア文学運動などの分析もかなりの紹介をしています。何を言いたいかというと、以前の党史には、その時点での焦点や問題、課題があるということです。それぞれの党史が独特に光っている。それぞれの党史もまた大事な中身だと思うんです。それが要約された形で「百年史」にはいっていますが、以前の党史もそれぞれに固有な中身があるということです。ただ、それを全部紹介するとなると、百科全書のようになってしまい、誰も読み通すことは出来なくなります。ましてや、新たな今日的課題に焦点の光を当てれなくなりますから。全体のバランスや焦点となることが明確にされること大事になりますから・・・。きっとそんな模索もあったんじゃないでしょうか。そしてて、今回の『百年史』の形にまとまったんだと想像します。このへんの苦労というのは、8月16,17日付「赤旗」の4者の座談会に、いくつかうかが得れるんですが。三、戦前の日本社会の困難な中でも、共産党が必要とされたこと。これが、今の時代に、戦後世代にとっては、「戦前の日本社会の困難」ということが、なかなかとらえにくいんですが。講釈しても、なかなか理解してもらえないんですが。それを理解させないようになしかけが、戦後80年続けられてきたわけですが。そこに無茶苦茶な発言が、平然としてなされる条件があります。歴史に何を学ぶか、歴史から何を学ぶか。「日本共産党の百年史」は、私たちがそれぞれに体験してきたことに問いかけています。今回は、戦前の第一章でしたが、さらに続きを進めるということです。