信州・安曇野の旅
50年余前の旧友たちと、9月26-28日信州・安曇野を旅してきました。
もちろん、アルプスの絶景や温泉、美味しい食べ物を楽しみました。
この旅の中で、私など注目した二つを紹介します。
一つは、安曇野市天蚕センターです
私なども、これまでに富岡の製糸工場、八王子の絹の道資料館、横浜の絹博物館と、
日本の製糸業の断片、断片は、これまでに見たことがあったんです。
だけど、私などにとっては、蚕を育てて、その繭から生糸をとる工程というのは、
一つの映像のシーンでしかなかったんです。
この安曇野天蚕センターですが、
日本に古くから自然に生息してる野生の蚕、すなわち天蚕を育てることが、この安曇野の地域では、
天明年間(1781-1788)のころからされていて、嘉永年間(1848-53)にはそれから繰り糸により生糸をとることが、明治の初め頃(1868)には踏み取り機による繰糸がおこなわれるなっていたというんですね。
それを目の前で、具体的に繭から糸をとる手作業を見せてくれたんです。
繭から糸を手繰って、7本をより合わせる。さらにその何本かをより合わせて生糸になる、ついているのりのような物質を取り除いて、それが織物の材料としての生糸になる・・・・と。
「明治時代は、日本の近代化の資金をつくるため、一番の輸出品として生糸があった」-養蚕は、日本の全国で行われるようになった。それはこれまで教科書にもあり、わかったような気になっていたんです。
ところが、今回、参加した学校教師のOBですが、この糸繰りの実際の作業と説明をきいて、感想をしきりと語っていました。
「『生糸』ということが初めて分かった。7本くらいの繭からの細い糸を集めて、より合わせる。さらにそれから生糸をつくり、『生糸』というのは、そうした作業からできたものなんだなんて。それが輸出品になったり、材料として布に織られたり、衣服になっていく。それがアメリカにも輸出された。一般的には分かっているつもりだったけど、ここでその様子をはじめて知った。自分は教師として、具体的な作業の流れをちっとも知らないで、それで生徒たちに教えていたんだということが分かった」と。
まあ、この教員OBの人の感想というのは、参加したみんなの感想でもあったんです。
それを感想として、口にしてくれたということなんですが。
それにしても、日本の全国各地で養蚕が行われていたこと。
日本国全体の近代化をささえる土台となっていた産業ですが、
「この安曇野の山地までもが、遠く離れたこの地までもが、養蚕にとりくんでいたというのは驚きだ」と、私などは当初感じたんですが。
まったく違ってました。ここから製糸というものが始まってたんです。
日本には、明治になって国が注目して国策として製糸工場がつくられる。しかしその以前から、日本の自然に生息していた蚕がいたわけで、この安曇野の地では江戸時代から養蚕・製糸・機織りが、発見・発明・開発されていたんですね。
日本には養蚕の独自の歴史があった。それが、この地にあったということです。
国策として注目される以前から、すでに、自然の蚕から糸をとり、より合わせて生糸をつくり、高級な織物をつくっていた。そうした技術が、すでにこの地で行われていたんですね。
だから、日本の養蚕の発祥ということは、この地から広がったわけです。
そうした技術があったからこそ、明治になって、機械を駆使しての産業が起こせたし、それが全国各地に広げれたんですね。いわばここは、機械化され注目される以前に、日本自身での養蚕・織物の技術を開発していた。それをしめすのがこの地だったし、その歴史を残そうとする天蚕センターだったんですね。
写真にもある通り、天然の繭からは、グリーンに光るとてもきれいな生糸がつくられるんです。
染め直しても、この光沢は輝いてるんだそうです。
西陣織などの高級絹織物にも、輝いて浮き上がる模様に、この生糸が使われているんだそうです。
説明をお聞きして、私などはそんなことはちっとも知らなったものですから、一つ一つを耳新しく認識をあらたにした次第でした。
しかし、一般にも、そうしたことは知られていないと思うんですよ。
「安曇野天蚕センター」館長さんが、丁寧に案内してくれて、説明してくれました。
これは、よく知った人にして出来ることで、はじめて知る私たちに対しても、わかりやすく説明してくれて、質問にも懇切に教えてくれたんです。
これは、日本にとって貴重な歴史遺産ですね。
「天蚕センター」が、そうした技術と歴史を、今に生きた形で残そうとしている。
そうした熱意が、その説明から伝わってきました。
「安曇野市天蚕センター」は、
長野県安曇野市穂高有明3618-24 電話0263-83-3835 です。
www.azumino-tensan.jp です。
もう一つは、「貞享(じょうきょう)義民記念館」を訪ねました
実際にこの地で、江戸時代の1686年にあった過酷化する徴税に対する農民の抵抗の記録です。
名主の多田加助が、農民たちの要求を藩主にだして、磔(はりつけ)にされた。
そけが、農民たちによって伝えられ生きた、その具体的な記録の記念館です。
江戸時代の過酷な税のとりたてに対する一揆というのは、各地にあるわけですが。
私なども、これまで知っただけでも、千葉の佐倉惣五郎、群馬の杉木茂ザ衛門、郡上一揆など、類似した問題というは、全国各地に同じような事例があったと思うんです。
それらと、この多田加助の「貞享騒動」との違いですが、
その具体的な一揆をとりまく問題の事実関係が、生の資料として残っていることですね。
その当時は凶作だった。これまでの五公五民の税でも、その周辺の地域に比べて高かったのが、
凶作のなかで7公3民に引きあげるとの藩の厳命が出された。
当時、村の名主だった多田加助は、磔(はりつけ)にされるのを覚悟の上で、10月14日に藩(奉行所)に農民たちの要求を訴状にして訴えたというんですね。
いったんは、事態を沈静化すめため、その要求は認められたものの、
11月22日には、磔(はりつけ)8人、打ち首の獄門20名との、11名は家族までもの極刑になった。
この騒動の事情が、具体的な資料として、残されているんですね。
「貞享(じょうきょう)義民記念館」ですが。
長野県安曇野市三郷有盛3209 電話0263-77-7550 です。
私なども、はじめて知った「貞享騒動」でしたが、
江戸時代の藩(武士)と農民との経済関係について、これから資料をめくるわけですが、
記念館の資料を見させてもらって、具体的にそれを知ることが出来そうな感じがしています。
見学を終えてから、こんな会話がありました。
「学生時代に、こうした事実を具体的に知っていたら、当時の50年前の学習がもっともっと勉学が生きたものになったんじゃないか」と。
「いやいや、今だからこそ案内者の説明にたいして、生き生きと関心をもって聞けるんであって、50年前の当時の若造はなまいきで、こうした説明も立て板に水で、今ほどには響かなかったんじゃないか」と。
両方の感想ともに、もっともだと感じました。
ということで、今回の信州・安曇野の旅もまた、有意義なものとなりました。