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先日の前橋中古カメラ市のこと。
ひさびさに(と言うか中古市の時にしか会わないよなー^^;)前の職場の同僚でもあった友人と食事を共にしていたとき部内病院の話が出て『ああ、あそこに行ってから(俺は)靖国に参拝して帰るよ』と言った時友人がほんの一瞬怪訝そうな顔をしたのにちょっとびっくりしました。 東京にあるその部内病院はちょうど靖国神社の真裏に位置しているのでそこに用事があるときは必ず靖国に参ることにしています。 (といっても真裏なので九段坂の正面入口にはかなり歩くんですが) それは別に宗教的な意味や思想的意味があるわけではなく、桜上水の父の二つ上の兄、つまり桜上水にとっては叔父さんにあたる人が義勇兵として満州で亡くなっているために半分は墓参りのつもりで参拝しているだけなのです。 (国のために亡くなった、と言うわけではないのですが対馬丸で遭難した私の小学校の先輩方や、樺太の真岡郵便電信局事件で遭難した職場の先輩方も奉られているので慰霊の意味もあります) 私が靖国に参拝する理由とその考え方を話すと彼は納得したようですが未だに 桜上水:『飯田橋の帰りには靖国に寄ってるよ』 同僚:『ぇえーー、靖国ぃ?』 と言った時の彼の怪訝そうな顔を忘れられません。 うーん15年も年齢差が有ると教育もそうなるんだなと妙に納得してしまいました。 桜上水が教育を受けた時期はまだ『戦後』の影が色濃く残ってた時期です。 (ましてや沖縄で教育を受けた桜上水のことですからなおさらです) 何をするのも常に『戦後』が重く圧し掛かる、あの妙な重圧感は桜上水と同世代の人間なら誰でも感じていたはずです。 桜上水以降の教育は戦後色を極力避けた、あるいは必要以上に自国家を卑下する教育だったようですから『靖国=A級戦犯と合祀=靖国参拝は国粋主義者のやること・戦争肯定』みたいな風潮が流れていますが、そもそも靖国神社の真の目的は『国家のために(あるいは国家の犠牲になって)殉じた人を奉る施設』であって諸外国で言うところの『戦没者慰霊公園』と同じですから宗教的な部分はこの際無視しても構わないでしょう。少なくとも桜上水の中では『靖国参拝=戦争肯定』は間違いです。 そもそも今30-35歳の人たちは『自分たちの所属する国がなくなる』と言う悲哀を感じたことがないのでは?と思います。 桜上水は『民族の民族による民族のための国家』を2回失ってますからその辺がリアルなんです。 ユダヤ人が何故あそこまで”約束の地”であるエルサレムを望み、そしてどれほどの熱意を用いてイスラエルを建国したのか、桜上水は判る気がします。 自分を自分たらしめている土壌は大切にすべきです。ともすればナショナリズムはグローバリズムと比較されて非難の対象になりがちですがこの世に違うイデオロギーを持つ人間がいて、その人たちが築いた国があるから世の中は面白いんです。みんな一緒の考えだったらつまんないでしょ? 国を国として存続させるために殉じた人たちのことを決して忘れてはいけないと思っています。 皆さんも一度靖国に行くことをお勧めいたします。 『戦争賛美』とか言う前に靖国は『国を存続するために殉じた人たち』のメモリアルなんですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010/12/08 01:06:19 PM
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