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今年度もS女子大で社会人生涯学習講座が開講されています。
今年のテーマは「家」。聖書を「家」という観点から見ていくと、いったい何を言おうとしているか。第一回は「アブラハムの家」というタイトル。その中でとりあげられた「マニフィカト」についての話をまとめました。 ーー 「マニフィカト」 ルカ福音書のマリアの祈り(ルカ1:46-55) この祈りは千年近く教会の祈りの晩の祈りとして祈られてきています。その中にアブラハムの名前がでてきます。マリア様がお告げを受けてお腹の中にイエスをいただいたとき歌った詩、イエスキリストを身に受けた人の賛歌です。マリアの賛歌でありますけれど、洗礼、学問的に聖書を知る、いろいろな形でキリストにふれたすべての人が抱く思いをマリアに歌わせています。 「私は神をあがめ、私の救いに喜び踊る。神は卑しいはしためを顧みられ」 ヨゼフはダビデの血筋だが、マリアはどういう血筋が言われていない。ナザレの貧しい乙女。マリア様は結婚してないのに子どもができるという形で「顧みられ」た。 ここでもいのちを危機にさらしている小さな女性がいます。 生活の基盤である土地を離れ、旅立ったアブラハムと同じです。両方ともこれほどのことが実行できたのは本人に勇気があったからではなく、神と出会ったからです。神は彼らにとって怖ろしい存在、いうとおりにしたら良いことになるかも知れないし、悪いかもしれないという存在ではなく、はっきりした人格、パーソナリティをもった責任感ある存在としてこの人達に関与してきました。 そして自分の命を危機にさらす行動をした、 「喜んでいる、幸せだ」とマリアは言いました。 神はどういう方か。はっきりとらえています。 次のことばはアブラハム以来蓄積された神観です。 「神はその力を現し、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座から降ろし、見捨てられたものを高められる。貧しい者を良いもので満たされ…」 「しもべ イスラエルを助けられた。 アブラハムとその子孫に約束されたように」 イスラエルとは神の民。何を約束されたのか。 創世記15章で、アブラムは成功しているが、それを受け継ぐ子がいないという失意の中を生きてきた。 「あなたの子が跡を継ぐ。天をあおいで星のようにあなたの子孫が広がっていく」と神は言った、その時アブラムは主を信じました。主はそれ(信じたこと)を、主は彼の義と認めた。 アブラムは高齢で子どもはいなかった、でも信じた。それを義(神との正しい関係)、つまり救いがあった。これが聖書のとく救いの一番のポイントです。彼に信じさせたのは誰なのでしょうか、彼は自分の力によって信じたのでしょうか、そうではない。神様の入念な心遣い、どこまでもいっても見放さない神様の心遣い、今子どもは生まれないけど、ここまでの神様の心遣いの中で彼は信じた。 何を信じたのか?これは大事です。 子供が生まれることを信じたのですか?それとも神を信じたのですか? 彼は神を信じたのです。どういう結果がでるかということを信じたのではなく、神を信じたのです。それは彼がハランを旅立つ時の同じです。どういう結果になるかわからないけど父なる神を信じたのです。 そして主はいいました。ウルから導き出した主である。私はあなたにこの地を与える、それが約束です。 契約は何か、子孫の繁栄、土地を与える。契約の同意する証しとして、動物を裂いた。 また深い眠りの中で、子孫は400年の間、奴隷となると告げられる。 あなたの子孫は400年寄留者として苦しむという話。これがヤーウェ伝承(J伝承)の著者が伝えた人間の在り方です。神の在り方を説明するとき必ず対になって出てくるのが人間とは何かということです。 なんで400年間というのかでしょうか。 あなた一代のことだけを考えていては駄目ですよということを言っているのです。 キリスト教では隣人愛といいます。今すぐ周りの人を愛する、それもいいでしょう。でも100年後、200年後、400年後の人も愛さなければ、それも隣人だから。神はそこまで考えているということです。 ーーー マニフィカトの祈りにも表れたアブラハムの約束。 創世記が文字化された頃のイスラエルの歴史的背景、当時の人々の思いなどにもふれ、イエスキリストによって成就する神の救いの計画の原型が、すでにイエス到来9000年前頃のアブラハムの時代にあったというお話でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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