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イエスは人々と出会い、旅をしながら、生きておられる神は、いのちを与えるだけでなく働き続けておられるのだということを示されました。
3秒に一人の子ども(10年前は5秒に一人だったのに)が日ごとの糧が足りなくて命を失っているという現状。私を超える存在によっていのちを与えられている私たち人間は、他の人のいのちに対しても、責任を感じなければなりません。 地球の人口は増えましたが、地球は世界中の人々を養う食料を生産、供給しつづけています。地球の生産力、そこに人間の叡智も加わっています。人間と大自然が協力し、産めよ、増えよ、地に満ちよという言葉どおりに。 食料価格高騰は何が原因かというと、株などの投資から穀物の先物取引にお金が回っているからです。食料価格が3倍となり、貧しい国々は輸入できなくなりました。また、その国内では、高いお金で売ることが出来る商業経済的に有利な農作物ばかり生産するようになっています。コーヒーではお腹いっぱいになれません。 今のように贅沢はできませんが、かつては土地で生み出す物を自給自足し、命をつないでいくことができました。国は富むのに、食べられない人が増えています。これは人間が原因。私たちもいろいろな形で知らず知らずに手をかしてしまっているのです。 太陽、地球の生産力も与えられたもの、いのちも神から与えられたもの。食べる、成長する、あらゆる場面で「与えられる」者である私たちが、私たちが責任をとらなければならない世界といのちを見つめていったとき、私がとらわれている世界から一歩離れることができます。 私のいのちは与えられたもの、私の人生は預けられたもので、人生は私が造ったものではありません。自分の人生を自分で完全にコントロールすることはできません。 いのちは日々私たちに新しい課題をつきつけます。学ぶべきことは絶え間なく現れ、そこから学ばなくては私たちは成長できません。そうやって私たちは人間に成っていくのです。 人は「学ぶ」という態度を生涯持ち続けなければなりません。学ぶことを生涯続ける必要があります。 人生という旅で智慧を身につけていきます。智慧が身につくとは問題に立ち向かう力が強くなること。そうなると更に上級の難しい問題がやってきくるし、目標も高くなる、これが人生の鉄則です。 人生は年中無休の学校です。人はこの学校から一生涯卒業することはありません。 ちょっと見方を変えると、学ぶことが多ければ多いほど、人生は楽しいじゃないですか。ここからも学んじゃえと思うと力もわいてきます。 自分自身を成長させ、変わっていくことを受け入れなければならない。私に力がないことの証しではありません。力のない人には問題はやってきません.むしろ力ある人に問題はやってきます。 人生で学び続ける時、どうしたらよいか4つの法則があります。 1,流れに身をまかせる マタイ6.25 2.最後までやり抜く マタイ16.24 3.謙虚な心 マタイ11.25 4.柔軟性 マタイ9.16 1.流れに身をまかせる 流れに身を委ねるとは、力を抜くことではあるけど、力を放棄する、投げやりになることではありません。人生の川の流れに抵抗するのではなく、何が大切かというと、流れをちゃんとキャッチする。どういう風に流れているかよくわかるということ。 私はこうしようと力んで、あまりに強く考えると沈み込みます。そういう気持ちをある意味弱めること。 どうして病気になったかと問いつづけても病気は治りません。なぜ成績が悪いか、教え方が悪い、○○すべきだったのにと考えるほどひどい状態になってしまいます。 流れに身を委せるとはエゴを一端、脇に置いてみることです。 絶対私はこう思う、こうでなければならないという自分の思いこみにとらわれないということです。 私のエゴが引き寄せる思いこみによって、流れとぶつかっている状態で、やってくるものが十字架ではありません。エゴから辛い思いを何度も繰り返し、それが人生と思いこみ、これでイエス様の十字架に連なる者になれた…??十字架とはこのことではありません。 自分のいのちのことで何を食べようか思い悩むな、人間としたいのちを与えてくださった神さまが配慮してくださらないわけがない。自分が全部計らおう、全部を配慮しようと思ってしまっているのです。 明日のことまで思い煩うなという言葉。その日1日くらいは、何で失敗したかとくよくよ悔やんでもいいでしょう。 朝日という新しいエネルギーがやってきます、朝になれば新しいエネルギーが地上に与えられる 人間も自然の一部。昨日は蕾だったあなたの中の可能性が花開くかも。その日の苦労はその日で終わりなさい。新しい日になったら、間違いや罪、失敗があったとしても、それを加味して出発したらいいじゃないですか。せっかく今日咲くはずの花を自分のエゴから駄目にしてしまいます。 2.最後までやり抜く 自分の選んだ道が一番いいのだということです、どんなことでも、最後までやり通す。いろいろな形で最後はやってきます。 十字架は、なぜやってくるか 「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」 イエス様は皆の長子として、みんなが幸せになるようにと思い、使命に忠実だったのに、人々は誤解してイエスを十字架につけました。当時の偉い人たちの嫉妬心もありました。 十字架の上においても父なる神の心を伝えることをやめませんでした。「この人達をゆるしてください。この人達は自分が何をしているのかわからないのです。」エゴイスティックになり、自分の思いに凝り固まった人間、自分の人生の流れを巨大なダムをつくってとめようとして、イエスを十字架につけようとした。イエスはその人達の罪の赦しを神に願って、私の魂を御手に委ねますと言って亡くなっていかれました。これが十字架の本質です。自分が人間として受け取った使命を最後までやりきる、人間としてあずかった命を十全に成長させていこうとするならば、必ず十字架がやってきます。 十字架は自分の人生に対する愛の行為です。人間として与えられた命に対する責任を果たす、いのちの原理に従ってやり抜く力、こなす力は与えられます。最後までやり抜く、例えば出産も過ぎこしです。いのちがそうさせるのです。 「一粒の種」は自分の在り方を変えていこうとする。あるところにとどまらず、最後まで歩んでいこうとするのが命の性質、今のままにとどまらない。いのちがそうさせるのです。 一粒の種は地に落ちるのは嫌だと机の上にいても乾燥して芽をだすことはできません。 やり抜くと決めた大きなことをきちんと決めないと日常の小さな選択、選びができません。 いろいろなところに表れてきます。 3.謙虚な心 イエス自身が謙虚な人であるといいました。 謙虚な人は自信がない人ではない、謙虚な人というのは、自分の良い所、限界も分かる人、限界を盾にして何もしない人でもない、限界を知りつつ、限界の中で限界を越えようという心構えのある人、自分が結果を出したいからではなく、他の人のため。全部知っていると思った途端、私たちは謙虚でなくなります。 「どうせ…」というのは「全部分かった、これで」ということ。 学ぶことなんてないという境地に達する人はいません。 そのような気づきをするために、私たちは傷つくことがたくさんあります。私たちは傷つきながら学んでいきます。手放さなければならないも多くあります。 自分の成功を当然だと思っている人がいる、成功は積み上げた結果であると、計画通りに物事は進んでいくのだと、そして礼儀を失する。エゴが肥大化し、礼儀を忘れ、見えない世界ですら誰かを人間扱いしないとしないこの世界は、謙虚な心を教えるために、舞い上がったエゴを地に落とそうする働きがあります、世界では何らかのバランスをとっています。歴史をみても世界文明の中心地は移り変わっていきました。 たとえ人生の曲がり角に立ったとしても自分を卑下することはない、今まで学ばなかったことを学んだと言うこと。疲れた者は私のもとに来なさいと、イエス様はおっしゃってます。 自分のエゴの肥大化によって、エゴという重荷を背負ってあえぎ歩んでいる。「私は謙遜な者だから私に学びなさい。」これも大切なこと。 神との親しい交わりのきっかけになる。傲慢さから転げ落ちて、痛い思いをして、謙虚さを学ばなくてはというところに、さしかかっているならば、喜んでその時がきたと引き受ければいい、それが流れなのです。流れにのるということです。 こんなはずはない、こんなのおかしい、私があれだけやったのにと抵抗するのは、1日の苦労。 明日は新しいエネルギーがやってくる、新しい蕾が開く日、今日の苦労は今日だけでよい、自分は傲慢だった、あれがいけなかったと責め続けることを神さまは望んでいません。裁くな、とおっしゃいました。自分自身も裁かない。そこから何もでてきません。 新しい光に新しい蕾を差し向けるのです。 4柔軟性 新しいぶどう酒は新しい皮袋へのたとえ。 これが柔軟さです。ぐずぐずしない、これが変化を怖れないということです。 変わっていく、私たちは流れの中にいるのです。 何かあなたに一番良いことに向かおうとするとき必ず抵抗があります。 やったほうが良い理由が一つ、やらなくてもよいという理由が10コ思い浮かぶとき、やった方がよい。 変化を怖れるな。単に朝起きて学校へ行くということかもしれません。私たちは朝起きるという変化でさえ、ねむい、今朝は寒いなどなど…変化が嫌いです。寝ていたい。これが人間。みんな自分の思い通りが良い。 新しい皮袋に入れろとイエス様はおっしゃっている。古い袋があるのだから、いれちゃえばいい。そうではなく袋まで変えなさいということです。 変化することを怖れるなということです。 柔軟性とは変化に「きちんと」対応できるということです。やたらと変えればいいというものではない。何でも変えちゃう人がいる。「きちんと」対応するというところは若者にはできない。これを学びましょう。 生涯に何度かあるものに固執しようと真剣に思うときがあります。今あるものは一時的なものに過ぎないのです。すぐにそれは変化していきます。 今あるものに固執したところで、それは長続きしないのです。 しがみつきたものがやってくると古い皮袋をみつめ、これに入れようかなあと1日考えてしまう、それは私たちの習性です。 これはあなたが経てきた大切な人生に学べばよいのです。 あなたはこれまでの人生でちゃんと新しい皮袋に新しいぶどう酒を入れたのです。そして新しい人生を歩み出しているのです。今考えてみてください。あの時、あのままだったらどうなっていたか、あの時これが一番いい、あそこにしがみついていたらどうなっていましたか。それが大切なところです。 卒業式で友達や大学と別れるのがどんなに悲しくて泣いても、誰も卒業するのを止めるたりしないし、1ヶ月後にOLらしくなって挨拶に来たりします。30,40,70になっても何かにしがみつきたいと思った時、卒業式に学べばいいのです。辛いと思っても別れ、区切れがあって、柔軟に対応していく。今あるものに対して感謝する、今ある物に対していろいろ学ぶこと、次にやってくるものに身を委せて学んでいく時、人は柔軟性を身につけていきます。 組織、企業、仕事でも同じです。 自分が便利なように何でも変えればいいというものではありません。新自由主義経済とかいってもてはやされたものが、今手痛い打撃を受けています。バランスがとられています。 人間は永遠に学び続ける者。人生が続く限り、学びの場に不自由することはありません。 大きな問題につながっている宿題を次々与えてくれます 生きておられる神は、いのちを与えるだけでなく働き続けておられます。 私のいのちや人生は私が作った物ではありません。 小さなことから自分が変わって行きたいと思うならば、この大鉄則です。 そこに変わっていくという大きな希望があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.23 09:03:35
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