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今年度最終回のH神父講座のノートです。
ーーー 「神との親しさ」を深めるために カトリック内にもさまざまな方法が考えられており、皆さんはいくつか体験しているでしょう。 その基礎にあるのは何かを考えてみたいと思いました。 「神」とは人間の言葉で語り尽くせない存在 「親しさ」とは何? イエスキリストが十字架上で「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたもうのか」とおっしゃった時、父なる神はイエスの一番近くにおられました。 私たちが考える親しさと神の側からみた親しさとは大きく違っていることが、聖書に示されています。 私たちの人生の中での、出会いと別れはそこで終結してしまうものではありません。私たち人間の側からみれば終結、決定的なようにみえるが、そこが神が働き始める出発点。いままでの人生を思い返すとあのとき別れた人、二度と会えない人、その人とあなたの関係はそのままでしょうか、どこかで浄化していく営みを日々続けています。 聖書が言おうとしているのは、単に私たちの実生活でまったく体験できない、感覚をこえたできごとというより。人間として真実生きていくなかに必ず現れる何ものかといえるのではないでしょうか。 神との親しさの地平の広さは人との出会いの地平の広さにつながります。 今年度の講座でとりあげた遠藤周作の「私が・棄てた・女」は別れを体験した男の物語。別れが終着点ではなかったことは皆さんおわかりでしょう。 「あなたが日常生活の中に聖なるものを見たいという思いでみたされると、不思議なことがおこる。ありふれた人生がありふれたものではなくなり、その人生を歩みゆくというそのことが、すでにあなたの魂をはぐくみ始めるのだ!」 皆さんの心に刻んでおいて、「あ、このことだ」と気づくことが大切。 3日間続けて声にだして読んでみてください。三日続ければ必要なときに出てくる。目で読む、声を出す、耳で聞く。身体で読むということは大切です。深読は身読でもあります。 1.神が創造したものはすべて神聖なものを内包している 人間、動物、植物、大地、社会組織、経済機構すべてのものは神聖なものを包み込んでいます。神によって造られたあなたは、あなたの中に神聖なものを宿しています。社会組織の中で嫌なことが多く起きてくるが、その中にも神聖なものが内在。 神の前での人間の責任とは何でしょうか。一見神聖ではない物の中に、神聖なもの見つけようとすることが、神様からいのちをいただいた人間のもっとも大切なつとめではないでしょうか。それは魂を育む行為になると思います。 聖なるもの=美とは限りません。美となる場合もあります。美しい日没、荘厳な朝日、美の中に聖なるものを見いだすことは簡単。それは非日常の世界だから。非日常が私たちに与えてくれる霊的力は大変大きい、その力を認めつつも、非日常の世界だけに神がおられるのではない。祈り・典礼・巡礼。これらは非日常を体験させるもの。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と私たちは日常へ派遣されます。非日常の中だけに神を見いだそうとすると、私たちは自分の魂を育むことが不可能になります。 非日常の中では受動的、荘厳な朝日に圧倒されるように、私の方から探す必要がありません。 修道院で美しいグレゴリオ聖歌が流れ、涙が流れた。そこにいるだけで神が私にせまってくる、受動的。 日常に神はどこにおられるのか、目覚め、探し、叩く。 その両方が大切。 生存競争の厳しい社会、温暖化、大不景気の世界の中にも神の痕跡を見いだす。 遠藤周作さんが、『沈黙』を書いた頃、あるスールにあてた手紙。 「神は全てを語らないが、全ては神について語っています」 病者を前にして病は本人の罪、あるいは親の罪と問う人に、イエスは神の栄光が現れるためとおっしゃった。受動的にはこんなところに神聖なもの、神などいないと思われるような場面に神を見いだそうとするのがイエスの自覚的姿勢でした。聖書は、イエスが自覚的でいられなかった十字架の上をも通して、すべては神の栄光があらわれるためだと断言しています。 人間の思想がそのように語ったのではなく、神自身が歴史の中で語ってきました。 歴史の中で神体験をするよう選ばれた民。それがイスラエル。エリートとして選ばれたのではなく、神が存在していること、神が憐れみそのものであるであることの証人として選ばれたもの。何をとおしてか、おもに民の失敗をとおしてです。神様が神以外のものをあがめてはならないと言っているのに、すぐに経済的効果があるようなバール神に走っていきました。すぐに効果が出るようなものばかり追いかけて、神様からいただいた国を全部失いました。そのバビロン捕囚のまっただ中で聖書をとおして神様は何を語ったのでしょうか。 イザヤ53.2~5苦難のしもべ 砂漠-人間の努力が効果をもたらさないような世界。その中に若枝が育ちました。魅惑するようなものが何もない状況。神へのそむきとは、私たちが「愛」にそむいたということ。「とが」とは、神の愛(神のあなたへの思い、あなたを大切にし、本当に育てたいという創造の計画)が私の中にしみこまないようにする何ものか。 その人が生きているあいだ、何も魅了するものがありませんでした。『わたしが・棄てた・女』が描いたミツも同様。 私たちが当然だと思っている場、たいしたことないと思える出来事の中に神聖な次元が秘められているということを言おうとしています。 美をみることができないからといって、そこに美が存在しないわけではない。イザヤ書の苦難の僕、ミツを私たちが見ても美を見いだせないでしょう。 聖なるもの、イコール美ではない。美として現れる場合もあるが、美として表れない場合もあります。 『夜と霧』のフランクルは、収容所の中での生き残りたいユダヤ人同士の醜い裏切り、争いを見た。そういう中で一人の給仕人だけは誰にも平等にスープを配った、彼の中に神をみた。収容所は不潔であったけど真実、美はありました。そういう世界から引き返して日常を見たとき、人はたくさんの美を見過ごしていたことに気づきます。自分の周りに聖なるものがちりばめられているのに私たちは日常という生活の中で受動的で気づかずにいます。圧倒されるもの、霊的力を使わずに私をひきつけるものだけに美を感じる。 寒い深夜にチームワーク良く道路補修を行う人たちが、自分を捨てて協力して仕事を行う姿勢。お題目のように自分を棄ててという修道会は、これほどチームワークがよいでしょうか。 介護の仕事をしている女性の話。彼女は信者ではないけれど、聖書の示す生き方が透けてみえます。イザヤ書の主の僕もミツも私たちと関係なく、神の存在をわからせるためにフィクションとして作られたものではありません。単なる文学作品、聖書の中のもので私たちとは関係ないというのではなく、私たち一人一人がどこかで出会っていることを象徴的に描いています。文学的作品の中だけに存在したり、宗教的美談の中だけに神は存在するものではない。皆さん自身も人生の中で同じような体験をしています。 3創世記1.31 神はお造りになった全てのものをごらんになった。見よ、それは極めて良かった 現実の世界に対する聖書のメッセージ。人間が間違って使って醜いものに変容させたものもあるが、根底において極めて良いもの あなたの人生も極めて良いものとしてあなたに与えられ預けられている そういう意味で 2. 「あなたが日常の中に潜んでいる聖なるものに出会いたいという思いで満たされると、不思議なことが起こる。 ありふれた人生がありふれたものではなくなり、あたえられた人生を歩みゆくというそのことがあなたに活気をあたえ、自分を肯定的にとられるようにさせてくれる。」 あなたは、その時遭遇する状況の中に神聖なものの核さえ見つけられればよい。核さえ見つけられれば、あなたの魂は成長していく。こんなに聖なるものに囲まれている、あなたは自分が大切にされていると感じはじめる。その時私たちは美の向こうへと脱出していく。価値の世界、ランク付けできる世界をでて、「存在」そこにそのようにある世界 50年生きた人は、その50年をやり返せない。そのように生きてしまった。それでも存在の世界へと脱出することが可能。私の手によっては変更不可能な私の人生が極めて良いといってくださる方によって受け止められています。 キリスト教、宗教とは何? 普通のことをとりあげて神聖なものとする科学 ミサの聖変化。もっともありふれたパンと葡萄酒をもっとも神聖なものとする科学。これが宗教の領域。 料理ーそこにも聖なる世界が展開。 経済活動にも聖なる世界があります。5、2,1タラントン預けられたしもべのことをイエスが話されました。経済的生活、お金を稼ぐ生活を肯定しているし、その領域にも神聖なものがあります。人をだまし金儲けしようとした多くの事件。経済的活動にも愛がなければ1タラントンを土の埋めるどころかなくしてしまいます。 子供を育てる中にも神聖な領域がいっぱいあります。友人の会話にも聖なるものがひそんでいます。そういうものを感じとろうとするとき、あらゆることは神様の計画の一部とわかってきます。なぜなら、それらの活動を通して周りの人を幸せにしていくからです。もう一つは、あなたが変容し、愛の人になっていくから。あなたが本物、神様が計画してくださったとおりの人間に成長していく。魂を成長させる。 反対に魂の成長に心をかけない状態とはどういうことでしょうか。利己的になっているとき。自分の目的達成ばかり考えているとき。自分が少しでも損をすると大きく動揺し、自分が持っているものを少しも奪われないことに大きな力を使って生きている状態。 人間の中に組み込まれた二つの欲求 自分のもとにひきよせたい←→自分を与えたい 私たちは二つの方向性をもっています。どんな人にもあります。 空き巣に帰りに、道路に飛び出した子供を抱き寄せ助けた泥棒。 4.大原則:神の創造した大宇宙はバランスで成り立っている ルカ14.17大宴会をもよおそうとする人の話。 こういう話を神様の話としてしまうのが信者。もちろん神様のことを言おうとしているが、神について語ることは人間について語ること。人間について語ることは神について語ること。なぜなら人間は神の似姿だから。イエスキリストの新しい契約は、炎や雷をとおして神がご自分をあらわすのではなく、人間を通してこの世にあらわれるというのが新約。 招待状をもらった客(非日常の人)は、行きたくないから断りました。連れてこられたのは広場の人、通りの人(日常の人)。 このたとえは、神ご自身がどれほどご自分を他者に与えようとしているか、ということを述べています。人間は神の似姿だから、人間には自分を他者に与えようとする仕組みが組み込まれています。 5.バランスを修正するためのヒント a大自然とのつながりを意識してみる。人間達が生きていく資源が足りないからのエコロジーでは足りない。もっと霊的なセンスが必要 b互いに生かし合っている関係を体験できる場に身を置く。 c ボランティアに参加してみる。ボランティアの、またお手伝いでもいい。 d 貧しい人々へ寄付をしてみる e 聖なる世界や国際平和のために寄付をしてみる。 gお盆やお彼岸とか命日ではないけれどお墓参りに行ってみる。その時、となりのお墓もお参りさせていただく。 hだれもが使うところをちょっときれいにする。きれいにすることを目的にやるのではなく、そこを使う見知らぬだれかのためにやらせていただく。 i 思い出の地を訪ねて昔の自分に出会ってみる。 6.最後に 人間に与えられた神の力=霊的な力は、事実を変えることはできないが、あなたが事実とかかわる方法を変えることができる。 例)親しい人との別れ、挫折… 神は問題をとりのぞくのではなく、その問題に立ち向かう力を与えようとする 例)受け入れる力はその最たるもの お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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