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カテゴリ:『恋情に届くまで』
その日、学生時代の友人に子供が生まれたお祝いに出かけていた眞姫は、昼過ぎになって帰宅した。
「ただいま」 眞姫はそのまま自分が暮らす離れに向かわず、まっすぐ母屋に戻ってきた。 「これは眞姫様。お帰りなさいませ」 そんな眞姫を出迎えたのは佳代子ではなく、白髪の恰幅のいい老人だった。 「これは……。お久しぶりです。久保さん」 「相変わらずお忙しいようで何よりですな」 久保は柔和な笑みを浮かべると、いかにも好々爺といった風に目を細めた。 久保は御年八十になる老人で、この宗家筋から枝分かれした支流の家元を勤める男だった。 とうに跡目を譲ってもいい年代にも拘らず、いまだにこの葉村宗家にあれこれ構いたがる困った老人の訪れに、眞姫は笑顔を向けながら、今度は何を言いに来たのかと眉間に皴を寄せた。 ちなみに宗主である利神に強く結婚を勧めたのもこの久保老だった。 久保の正面に腰を下ろしながら、煩いことは早く済ますに限ると用件を切り出した。 「わざわざお越しとは、余程のことが起ったのでしょうね」 言外に余程のことでなければ来て欲しくないと匂わせた眞姫だが、八十年近く生きる老人には少々の嫌味など通じないらしく、動じた風もなく久保は笑っていた。 「まぁ大事と言えば大事ですな。何せ、宗主の片腕、この先、葉村宗家を宗主と共に支えていこうという方の一生の問題ですから」 逆に嫌味で返された眞姫は、今日は自分が苛められる番かと舌打ちしたくなった。 「私の一生の問題とは何事ですか。残念ながら、私には思い当たることがないようですが」 「おや。それは自覚のない。仮にもこの家に住みながら分からないとは嘆かわしい」 のらりくらりとした言い分に、眞姫は勘弁してくれと白旗を挙げそうだった。だって、本当は眞姫にだって分かっているから。 行儀よく正座する久保の脇には、いかにもな薄い風呂敷包み。 以前にも久保は同じような包み片手に、利神の元に日参していた。 (今度は俺の番か……) 「同い年の利神様がすでに子を成されている以上、次期宗主は決まったも同じ。とならばその宗主を補佐する次代の片腕も必要だということです」 眞姫の目の前に広げられた複数の見合い写真。平たく言えば、お前もそろそろ身を固めろということだった。 「いずれも劣らぬ美女ばかり。家柄も気立ても文句なく、この先いずれも賢婦人と呼ばれること請け合いの、家庭的な女性ばかりです」 家庭的と強調したのは、宗主の妻が自分の仕事にかまけて、葉村流の一切の行事に顔を出さないせいだろう。 そういう意味ではこの老人の心配も分かるが、眞姫にだって自分のペースがある。 「残念ながら、私には妻を娶る余裕などありません。無理にことを急いても、破綻するのは確実なことのように思えますので」 眞姫は用意された見合い写真を見ることすらせず、そのまま久保に押し返した。 「困った方だ……」 久保はハァ、と溜息を吐くと、仕方ないというように肩を竦めた。 諦めてくれるのか。と肩の力を抜いた眞姫は、利神に比べて甘いのかもしれない。 「そう言われると思って、本日は用意をしております」 久保がまるで芸者でも呼び込むように、パンパンと手を叩く。するとスルリと襖が開いて、その先には赤い振袖姿の女性が控えていた。 「久保……さん?」 年を取って余計にしたたかになったのか、それとも自分の残りの人生を考えて急いでいるのか、利神に勧めた時よりも余程強引なやり方だった。 「これはどういうことですか」 「もう眞姫様も三十歳目前。こう申しては何ですが、過ぎるほどに自由は満喫されたはず」 だからさっさと身を固めろ。と、久保は眞姫を急かした。 「本日お連れしたのは私の知人のお嬢様でして。父御は大学で日本文学を教えておられ、大層日本舞踊に造詣の深い方」 久保は控えていた女性を側に呼ぶと、独壇場とばかりにプロフィールを紹介し始めた。 その頃利神は、門下生に稽古をつけながら、そろそろ顔を見せるはずの眞姫が来ないことを訝しんでいた。 仕事の都合上、互いのスケジュールは把握している。そして利神は眞姫が時間にうるさいのをよく知っている。 「一旦休憩にしましょうか」 利神は師範代に声をかけられて、いいだろうと鷹揚に頷いてみせる。 「母屋に戻る。後の稽古はお前に任せよう」 利神は言い置くと渡り廊下を進み、母屋へ戻っていく。 母屋に戻った利神は、眞姫から連絡はないか確認しようと佳代子のいるであろう台所に足を向けた。 「佳代さん」 「あら、利神さん」 見慣れた女性の後ろには、あまり見たくない老人の姿があった。 「これは利神様。お邪魔しておりますよ」 かつて、殺してやりたくなる程しつこく利神に結婚しろと言い続けた老人は、結婚した後も印象が悪く、出来れば余程のことがない限り会いたくない人物だ。 「……そろそろ冥土に旅立つ挨拶にでも来たのか」 眞姫よりも余程キツイことを口にするのは本来の性格と、したくもない結婚をせざるをえなかった恨みのせいだ。 「冥土に旅立つ前に、もう一仕事と思いましてな」 「一仕事………」 その言い回しが気になった利神は、不吉なものを感じて眉間に皴を刻んだ。 「明神様とて一緒に遊ぶ従兄弟殿が欲しいでしょうしな。それこそ利神様と眞姫様のように」 「……お節介で、今度はあいつに見合い写真を持ってきたのか」 ギリリと睨みつけてしまうのは、利神が自分の時の煩わしさを思い出してしまうからだ。 「私も勉強しましたからな。ああ見えてあの方も意外と頑固でらっしゃるから、写真などとまどろっこしいことで安心は出来ませんよ」 「何……?」 満足そうな笑みに、利神は不吉なものを感じ佳代子を振り返る。 葉村家の優秀な家政婦は困ったように肩を竦めると、老人の手の内を教えてくれる。 「それが女性をお連れになって……。今、眞姫様と座敷の方でお会いになっておられます」 ピクリと利神の眉が吊り上る。 「つまりは見合いということか」 利神はいかにも不機嫌といった低い声で呟くと、久保に視線を固定する。 「あなたが葉村流の存続に固執するのは分かるが、何の前触れもなく勝手なことをされては困る」 並の者なら射殺してしまえそうな鋭い視線が、まっすぐに久保に突き刺さる。 「今、眞姫は門下生の指導する時間で、こちらはそのつもりで予定を立ててある。たかが見合いごときでスケジュールの変更をされては一緒に仕事をしている私の迷惑」 利神にだって目上を敬う気持ちはあるけれど、こんな風に礼儀も常識も踏み越え勝手にされるのは我慢がならなかった。 「お分かりいただいたら、今後勝手な行動は慎んでもらいたい」 鋭い口調で言い放った利神だけど、当の久保は気にした風もなく、まるで幼い子供を諭すように利神を呼ぶ。 「結婚に関することをそのように軽く扱うのはどうかと思いますな。ご自身は幸せな家庭を築いておられるからうるさいと言われるが、眞姫様はまだ独身。従兄弟なら逆にふさわしい女性を探して差し上げるくらいしてはどうですか」 余程眞姫に結婚させたいらしい久保は、利神の意見に耳を貸さず、甲斐性のないと嘆く風だ。 「よその心配をするより、自分の孫の心配でもしているがいい」 利神は忌々しげに吐き捨てると、口の端を吊り上げた。 久保から見れば、まだ利神などは取るに足らない若造だろうが、それでも宗主などという立場にいれば見えてくるものもある。 「お前の後継にしようとしている孫の明久(あきひさ)だったか……。十五も年下の女子高生に強引に手を出し孕ませ、金を積んで下ろさせたそうだな。そんな素行の悪さでは末端と言えど、葉村の家元は名乗らせられん」 利神は冷たく言い捨てると台所を出、眞姫のいる座敷を目指した。 叩きつける勢いで襖を開けた利神は、眞姫にしなだれかかろうとする和服の女性を目にした途端声を荒げた。 「稽古に顔も出さず、女と部屋に篭るとはいい度胸だな、眞姫」 久保老によって呼び起こされた怒りが、治まらない。 「違うって、利神」 困ったような声は作ったものじゃなかった。 けれど利神は、意地悪く口の端に小馬鹿にしたような笑みを浮かべると目を細めた。 「違うのか? お前がいい年をして女に押し倒されそうになってるように見えるが、俺の目が悪くなったのかな?」 利神の登場にただただ驚いていたらしい女が、ふと我に返ったように慌てて眞姫から離れる。 「それとも、お前が誘ったのか」 「誘ってない」 即答した眞姫に満足そうに頷いた利神は、ちらりと女に視線を向けるとクスリと小さく笑った。 「だろうな。どうみてもお前の方が色っぽい。これじゃ役不足だ」 平然と言い放つ利神に、遠慮の文字は存在しない。 「それどういう意味よ!?」 久保に「家庭的」と紹介されたことなど忘れ去った女が叫ぶ。 利神はそんな彼女を見て、さも面白そうに笑うのだ。 「どう、と問われてもそのままの意味だ。慣れない着物など着てくるから少し動いただけで着崩れが激しいし、がさつな態度が余計に強調される」 そう言って利神の視線が女の胸元に向かう。 何もしていないだろうが、少し動いただけで胸元の合わせが乱れ、着物の下の襦袢の襟が大きく見えすぎていた。 「葉村流幹部の妻になろうというなら、それなりに行儀見習いをしてから来るんだな」 何なら眞姫に見本を見せてもらえと、あんまりなことを言った利神は、それきり彼女を意識の外に追い出してしまった。 「眞姫も眞姫だ。久保のジジイが口出ししてくるのは、本家に絶対の力を残したいからだ。その為に自分の知り合いの女をお前にあてがいたいだけだ。マジメに取り合うな」 利神は眞姫の腕を掴むと、強引に引きずるように部屋を出た。 「佳代さん、お客様のお帰りだ!」 途中、台所にいる佳代子に声をかけると、利神はそのまま眞姫をつれて離れに向かって渡り廊下を進んでいく。 目指すのは眞姫の部屋だ。 「利神」 外観は和風だが中身は洋風な眞姫の部屋に入ると、利神は突き飛ばすようにして眞姫を放すと、後ろ手でカチャリと鍵を閉めた。 「馬鹿が」 怒りを殺した獰猛な声。 「利神……?」 「だからお前は馬鹿だと言うんだ」 何度も馬鹿と繰り返して、利神は眞姫をその場に押し倒した。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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