日本の食糧自給率が発表された。低いのは今に始まったことではないが、これを安全保障という言葉とリンクさせようとするとまずお目にかかりにくくなる。つまり食糧の確保が安全保障というカテゴリーでは議論されるわけではない。むしろ冷戦時代の深刻な時期にはそれぞれの国には核へ備えとして存在したと言ってもよいだろうけど、その間は騒がずに貿易立国日本と平然としていて、このポスト冷戦の地域紛争の時代に至って安全保障として捉えるとは、その視野の狭さとともに、日本の安全保障の感覚が理解されにくいものとなる。
むしろ世界の産地を含めて大規模なテロ、災害そして疫病などで食糧供給が途絶したり滞る緊急事態の際に、備蓄をもって対応することが基本である。そして他国からの輸入食品安全問題への対応も中国のつっぱりにうやむやになってしまっているような実態を放置するやり方より、答えが必要なのである。これは当時の総理がうやむやを選んだのであるが。
ただ日本にはオイルショックの際にトイレットペーパーを買い占めるという並外れたリアクションの社会的経験の実例がある。いきなり戦争中を思い出したという言葉が頭に残っている。むしろいきなり戦国時代の兵糧攻めのイメージがでてくるのだろうか。日本の食糧自給率が急激に変わらないのは現実であり、たとえ輸入相手が友好国米国であっても(これが日本の食糧自給率をこのレベルまでにした安心感の根拠だろうが、変わりつつあるのが実情)これへの政府の責任を問われれば、まず一定の備蓄を用意し、自給率向上の時点まで備えることが必要と判断しこれを行うのが政治ではないだろうか。
でもそうならない。その際に在庫などの維持管理費用がかかり無駄といえばもう安全保障でもなくなり、財政厳しいおりからという、単なる経済原則判断が前に出るだけで終わるのが日本的な安全保障感としてピンとくるのである。備えなくても憂い無しというものである。このままではまた事態出現時でのパニックしかなくなる。食糧は人への不可欠な資源である。エネルギー小国日本の対応目線まではあるべきだ。中東やロシアに運命を委ねる事態ありとは想定すべき人もおるまい。(画像は農水省、左と右の差が輸入金額、あまりにでかい)