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五郎のイギリス日記。

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2005.02.27
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27 Feb 2005(Sun)
ヒッチコックの映画を見て筈見有宏氏の「ヒッチコック」講談社現代書を読んでいた。
そのなかから少し思ったことを書いてみよう。HPは僕のメモ帳みたいなもんだからね。

ヒッチコックはその生涯で53本の長編映画を演出し、そのうち40本がサスペンス映画だと言う。

僕はあまり怖い映画は好きでないし、ほとんど感動すらない。人に勧めることもない。
ホラーが好きだという人間とはつきあうことはないでしょう。ソーユー人種は大嫌い。
短い人生、なんでそんな恐怖心を煽るようなものは見る必要もないという考え。

子供にスリラー映画を見せるのもよくないと思う。
大きくなって何か仕事を始めていくとき、不要な恐怖心は邪魔になるからというのが
その理由。

でなんでヒッチコックのことを書くのと聞かれると困ってしまう。

理由は、
a)イギリス人の描写がうまい。役者の演出もうまい。それを見たい。
b)政治、ビジネス、国際感覚を楽しむゲーム的な要素があるから。
c)ヒッチコックのブロンド女性への“特別な”女性観はどこから来たのか興味がある。
 なぜかくもブロンド女優を使ったのか、その社会的な意味を知りたかった。


アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock
本名: アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック
生年: 1899年8月13日
出身国: イギリス
出身地: ロンドン レイトンストーン(Leytonstoneはシティの北東の位置)
没年: 1980年4月29日(Los Angeles)

Leytonstoneという街。。ロンドンに4年住んでいたけど、一回も行ったことないなぁ。
日本人はほとんどいないだろうなと思う。

ヒッチコックの作品は3つぐらいかな。
『鳥』←海で鳥をみるたびに必ず思い出すのがこの映画の「鳥」が人間を襲うシーン。
シャワールームの。。『サイコ』(1960) アリゾナ、フェニックスのモーテルかな。
『バルカン超特急』(1938年) ←このコメントを昨日メルマガで配信。

鶏肉や青果を卸し業を営む敬虔なカトリック教徒の家庭の3人兄弟の末っ子として生まれる。
5才のとき、父親が地元の警察署長に渡すように手紙を持たせて警察に行かせた。
それを読んだ署長がヒッチコックを留置場に入れ錠をかけた。約5分間。
そのとき、「悪いことをするとこうなるんだぞ」と少年ヒッチコックを脅したらしい。
この時の恐怖がトラウマとなって以後警察と監獄嫌いになってしまう。(好きな奴は誰もいないよね)

学生時代を厳格なカトリック系の学校(Saint Ignatius College)で過ごし、
航海学校で製図の勉強をしていたが、家計を助けるために大学を中退して
the Henley Telegraph and Cable Companyに就職。働きながら
ロンドン大学の美術学部の聴講生になってデッサンやスケッチを勉強していた。
最初は技師として働いていたが、広告部門に移りと美術の才能を活用、広告のレイアウトを担当。
その後、ロンドンの百貨店の広告デザイナーのアシスタントとして雇われたらしい。

1919年にヒッチコックはパラマウント社の前身であるフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・スタジオが
ロンドンに撮影所をつくるというニュースを見て応募した。サイレント映画用の下絵をいっぱい書いて
持ち込んだのが成功したようで彼は字幕デザイナーとして雇われた。

その後字幕製作班の主任に昇格し、約3年間で12本の字幕デザインを手掛けた。
22年には『第十三番』を監督する機会に恵まれるものの、制作費を工面できずに撮影は中断。

1923年にはイズリントン撮影所のシナリオ・ライターとなり、
『女対女』(1923)、
『白い影』(1923)、
『淑女の転落』(1924)
などの作品で助監督、脚本家、美術監督として活躍し、
ドイツのミュンヘンで撮影された『快楽の園』(1925)で念願の監督デビューを果たす。
翌26年には記録係兼編集者のアルマ・レヴィルと結婚。

同年には切り裂きジャック事件を下敷きにしたヒッチコック初のサスペンス映画『下宿人』を発表。
天井をガラス張りにして階下の人々の不安を表現するなど、
『下宿人』はその後のアイディア溢れるヒッチコック映画のはしりとなる。ヒッチコックはエキストラとして出演。


名探偵ホームズのコナンドイルはなぜこの切り裂きジャック事件を取り上げないで、避けて
通っていたのか、今調査中。この事件は調べれば調べるほど奇怪な事件。いやになってしまう。
だからこの映画『下宿人』。。俺は見たいけど見たくない。


1927年にはブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ社に移り、
1929年に初のトーキー『恐喝(ゆすり)』を発表。
この映画では大英博物のてっぺんからの転落シーンなどがある。

『ジュノーと孔雀』(29)や『リッチ・アンド・ストレンジ』(32)などを手掛けた後、
独立を望むヒッチコックはゴーモン・ブリティッシュ社に移籍する。

1934年の『暗殺者の家』は手に汗握るスリルに満ちた傑作サスペンスとして絶賛を浴びた。
この再映画化したものが「知りすぎていた男」。
ロンドンのアルバートホールでオーケストラが演奏中にシンバルを叩く瞬間に
暗殺者が拳銃を発射するというシーンがある。

1935年に公開された『三十九夜』は前作以上の評価と成功を獲得。
原作はジョン・バガンのリチャード・ハネイシリーズ。
陰謀団による某国高官暗殺計画。

さらに『間諜最後の日』(1936)、日本公開は1937年。
満州でもうすぐ零戦が飛ぶ頃かな。
この映画の原題は「Secret Agent」by あのサマーセットモームの短編から。
大学受験の英語でよくサマーセット・モームの問題やったよね。
実は彼は元諜報員。そうなんです。彼は007の一人。
イギリス情報部のスイス支社で情報活動をしていた。だからこの原作を読んで
この映画見てみたいね。
モームの短編の名前は「アシェンデン」英文名が欲しいね。
ドイツの諜報部対イギリス諜報部。。
ドイツの有名な諜報組織には『ゲーレン機関』なんてのがあったね。

戦後、この時の情報がOSSに引き継がれ、CIAの誕生につながっていくのでしょう。
このときの第二次大戦中の欧州の情報機関の学校の校長先生があの有名な
ヘンリーキッシンジャーですね。ロシアのプーチンスパイのドイツでの諜報員活動は
その後すっとあとですね。

『サボタージュ』(1936)、
『第三逃亡者』(1937)、
『バルカン超特急』(1938) ←このコメントを昨日メルマガで配信。
これはエセル・リナ・ホワイトの「車輪は回る」の映画化。

などの良質のサスペンス映画を立て続けに発表してイギリス映画界での確固たる名声を獲得する。

ヒッチコックの才能はハリウッドからも注目を集め、『風と共に去りぬ』(1939)の敏腕製作者
デビッド・O・セルズニックが80万ドルという破格の報酬で4本の映画を製作する契約を交わす。
1938年ヒッチコックは妻と娘といっしょに渡米しハリウッドに拠点を移す。

ハリウッド入りしたヒッチコックは、ダフネ・デュ・モーリア原作の『レベッカ』(1940年)を演出。
映画は大きな成功を収めてその年のアカデミー作品賞を獲得し、ヒッチコックも監督賞に初ノミネートされる。
作品賞はプロヂューサーに与えられるものであって、ヒッチコックはオスカー像を手にしてはいない。

『レベッカ』の成功によってハリウッドでの確固たる地位を築いたヒッチコックは、
『海外特派員』(1940)--飛行機が砲撃を受けて海面に墜落していくシーン。
『断崖』(1941)、
『疑惑の影』(1943)←アメリカ小市民の日常生活のなかにサスペンスを持ち込んだもの。
などの傑作サスペンスを送り出して「サスペンスの巨匠」の名を欲しいままにする。


ハンフリーボガードとバーグマンの映画「Casablanca」は1942。もう5回ぐらい見たたかな。
でこのイングリッド・バーグマンをヒロインに起用したヒッチコック映画は
『白い恐怖』(1945)、
スパイ・サスペンス『汚名』(1946)、
『山羊座のものに』(1949カラー映画)赤字に終わり、
トランス・アトランティック・ピクチャーズは破産に追い込まれる。

『白い恐怖』(1945)のイングリッド・バーグマンには特別な感情を抱いていたため、
バーグマンとイタリア人監督ロベルト・ロッセリーニとの不倫劇はヒッチコックを大いに失望させた。

続く『舞台恐怖症』(1950)や『私は告白する』(1953)などの意欲作も失敗に終り、
ヒッチコックはスランプに陥る。
1950年以降はヒッチコックはプロヂューサーも兼ねて自由にスタッフを選んだ。

西部劇『真昼の決闘』(1952)でのゲーリー・クーパーの若妻役に抜擢されたグレース・ケリー。
そのグレース・ケリーをヒロインに起用した映画は:

1954年の『ダイヤルMを廻せ』→MはMurderのM
彼女のレディらしさとセクシーさに注目して、遺産目当てに殺されそうになる人妻役。
『裏窓』(54)
『泥棒成金』(55)興行的に大きな成功を収める
「ヒッチコック」講談社現代書を書いた筈見有宏氏はグレース・ケリーに夢中になったと告白。
俺も見てみたいね。あのグレース王妃の女優時代を。



第二次世界大戦が激化していた44年には祖国のイギリスに戻り、イギリス情報省の依頼で
自由フランス軍の戦意高揚を目的として
『ボン・ヴォヤージュ』(1944)、
『マダガスカルの冒険』(1944)
の2本のフランス語の短編プロパガンダ映画を製作。

1955年には自身がホストと総合プロデューサーを務めた『ヒッチコック劇場』の放映が始まり、彼独特の
ブラック・ユーモアがふんだんに盛り込まれた番組は絶大な人気を獲得。
番組は62年まで続き、8年間で265話が作られて、その内17話をヒッチコック自身が監督した。
このヒッチコック劇場興味あるね。いったいどんなふうだったのか。
最盛期を迎えたヒッチコックは、自身のお気に入りの映画『ハリーの災難』(56)、34年の『暗殺者の家』の
リメイク『知りすぎていた男』(56)を発表。

63年の『鳥』では人畜無害な鳥が突然人を襲いだす恐怖を描いて興行的な成功を収める。
しかし、『鳥』でヒロインを演じたティッピ・ヘドレンを再び起用したサスペンス『マーニー』(64)は失敗。

続く2本のスパイ映画『引き裂かれたカーテン』(1966)と『トパーズ』(1969)も往年の冴えを失った凡庸な作品となった。
祖国のイギリスで撮影した『フレンジー』'72)はそのサスペンス性が高く評価されたが、
1976年の『ファミリー・プロット』を最後にこの世を去った。この映画では偽の降霊術で儲けようする話がでてくる。

個人的にはヒッチコックの「北北西に進路を取れ」この映画にとても興味があるね。


ある映画サイトでのヒッチコックへのコメント:

>彼の作品には性の倒錯や欲望、幻想、死への賛美などが込められているが、
  ヒッチコックの私生活にもこのような偏愛があったといわれている。

このヒッチコックの私生活にも。。?? 偏愛? これはいったい何を意味するのか、
よくわからない。異常な体験がないと異常な状況の演出はできないということか。
異常な人間にならないと異常な状況での人間の心理はわからないし、従って
その演出もできない。だからヒッチコック自身のなかに、よく似た体験があるのかも
しれない。彼はきっとエンターテイメントの世界で一人のアーティストとして
とことん、おもしろさを追求していっただけなのではないだろうか。

もし彼が性的倒錯的なとこがあれば、もっと私生活はぐちゃぐちゃになっていただろうし、
監督をやりながら、いっぱい犯罪を犯しているでしょう。でもそんなの聞いたことがないよね。

『レベッカ』、『救命艇』(1943)、『白い恐怖』、『裏窓』、『サイコ』の5作品で
アカデミー監督賞にノミネートされたが一度も受賞できなかったが
1967年にはアーヴィング・G・タルバーグ賞が贈られた。

なぜヒッチコックはアカデミー賞を取れなかったのでしょうね。これこそが映画界のミステリー。

なぜかくもブロンド女優を愛したのか?
まだ答えが出てないようですね。みなさんのご意見は??

五郎







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Last updated  2005.02.27 15:08:13
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