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**************** ちりん。 風鈴が鳴って、美並は顔を上げる。 さっきまで見えなかったのに、風鈴の背後には晴れ渡った青空があった。 風が吹き抜ける。 『よく晴れたね』 背後からやってきて、隣に立った人が微笑んで見下ろす。 『課長…』 風に前髪を嬲らせて、そう言えば最近長めだった、とやさしく見上げる。 『いい風ですね』 『気持ちいいよ』 皺一つないシャツに包まれた腕を差し上げて、ゆっくり伸びをする。閉じた目、頬に睫毛が影を落としている。 『長い間、曇っていた』 『はい』 『いつ止むのかわからない雨の中で』 『はい』 『どこにも行けず、どこにも還れず』 『…はい』 それは美並の気持ちそのものだ。 足元を見下ろすと、なんと裸足だった。ストッキングさえ履いていない。濃い緑の草原、所々に小さな白い花が咲いている。 『…ここは天国ですか』 俯いたまま尋ねた。 『あなたは課長の姿をした、天使か何かで』 裸足に草が触れる。くすぐったくて、それでも穏やかな日差しが気持ちいい。 『私はひょっとして、あれこれ踏み越えてしまったから、あの世界に戻れなくなったんですか』 さっき見た赤来の棲まう闇の光景が、幻だとは思えなかった。孝の死の真相も真実ではなくとも近いのかもしれない。 境界を踏み越えて、美並はとうとう世界から外されてしまったのか。 『もしそうだとしたら』 隣のスラックス姿の真崎は静かに問い返す。 『君はここに来るのに躊躇した?』 『いいえ』 即答した。 『決めていましたから』 自分の能力をどう使えばいいのか、ずっと悩んでいた。どう使えば誰かの役に立てるのか。誰かの痛みを減らせるのか。意味があったと思えるのか。 結論は酷くてシンプルだった。 誰も傷つけずに、力を使うことはできない。 ならば、問題は、いつ、誰に、どう使うか、それだけだ。 『課長を…尊敬しています』 もう戻れないかもしれないが、それなら今この相手に、気持ちを素直に伝えておこう。ひょっとすると気まぐれで、真崎に届けてもらえるかもしれない。 『僕を?』 訝しそうな口調も真崎そのままでくすりと笑う。 『はい』 『僕は情けなくてみっともなくて、迷ったり悩んだりいじけたりばかりしてる、つまんない男だよ』 ああ確かに真崎ならそう言うだろう。 『美並の方がずっと凄い』 柔らかく呟かれる声に涙が出そうになる。 『いいえ……いいえ、あなたは全然わかっていない』 思わず反論する。裸足の爪に落ちた雫はないことにする。 『課長は、いつもちゃんと、わかってました』 赤来と話した後だからこそ、よくわかるのかも知れないが。 『自分のしていることが、良いことなのか、悪いことなのか、いつもちゃんと考えてた。わからないとか、知らないとか、課長の身に起こったことで、そんな風にとぼけて良いことなんて山ほどあったのに、課長はいつもちゃんと決めていた』 大輔に襲われたのは悪いこと。 孝を探さなかったのは悪いこと。 美並と出会ったのは良いこと。 美並を守るのは良いこと。 『自分の不利になることも一杯あったのに、一つもないことなんかにしないで、全部抱えて、壊れかけてるのにちゃんと抱えて』 恵子に巻き込まれたのは悪いこと。 美並に愛されるのは良いこと。 『迷っても悩んでも、一つ一つ選んで決めて』 『正しくないこともあったよ』 『正しさなんて意味がないです』 雫が数を増していく。足が濡れて風に冷える。 『もし、正しさがあるとしたら、自分が悪いことだと決めたことを絶対しないってことです』 真崎は変わろうとし続けた。 『わからないとか、いつかとか、そう言うことばで逸らさないで』 約束するから、美並。 お願いだから、もう一度チャンスを。 幸せになるから。 『あなたは何にもわかっていない』 この能力を与えたのが誰かは知りませんし、知りたくもありませんが。 『私の願いを叶えてくれたのは京介だけです』 だからこの後二度とあの世界へ戻れなくても後悔などしない。 『私は、私の能力を、かけがえのない相手に、二度とない時に、絶対必要な形で使いました』 顔を上げる。 びしょびしょになった顔を見下ろす、優しい真崎の笑顔に涙が溢れる。 『そのどこに後悔する要素がありますか』 『…美並』 近寄ってきた真崎が顔を包んでキスしてくれる。 額に、両頬に、そしてそっと抱き締めて、髪に。 『僕は、あなたを尊敬する』 真崎の声は体を通して響くより、何か周囲の空気を震わせるように届いた。 『あなたが行なった全ての選択と、それに伴う全ての責務に、敬意を表する』 愛しい人。 大切な人。 『あなたの望むように』 もう一度髪にキスが落とされる。 『それから…』 くす、と小さく笑い声が漏れた。 『唇は彼に残しておこう』 帰れる。 閃いた確信に拳を握る。 『うっ……あああああ!!!』 美並は、泣いた。
第5章終了 **************** お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2026.10.09 01:12:48
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