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2026.05.19
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「……よし」

 いいや、と思い切って水を止めた。濡れた雑巾を絞り切る。同時に体の中で疼いた甘い波も一気に絞って外し、バケツと雑巾を外のテラスに干した。窓一つ向こう、中でそんなことが続いているとはわかりもしない朝の光の中、一瞬振り向きたかったのは人情、それでもぐいと体を捻って戻りかけたとき、

「ああ…なんだ………伊吹さんじゃないか……」

「っ」

 状況に全く不似合いなしらっとした声が、荒い呼吸の合間に耳を掠めてぞくりとした。

 知っている。

 それは二つの意味を含んでいる。

 この声を美並は知っている。

 この声は美並を知っている。

「……」

 身動き出来ずに立ち止まった。

 耳の奥に再生される声に重なる声を、確かに美並はここ、桜木通販の中で聞いた覚えがある、けれど、どこで、いつ?

 そしてもう一つ。

 この声に含まれた奇妙な違和感を、その、世界と隔絶されたような整然とした感覚を、美並は別の人間に感じたことがある。

「羽鳥…?」

 そうだ、「羽鳥」の資料を読み込んだ時、その言動を追いかけた時に感じたそれととてもよく似ている。

「………」

 この壁の向こうに、「羽鳥」が居る?

 のろのろと壁を振り向いた。

 そうだ、居るのだ、この向こうに。

 しかも、その「羽鳥」は美並を知っている、こんな状況でちらりと見えた姿だけで認識できるほどに。

 どうする? 踏み込むか?

 今なら「羽鳥」の顔を確かめられる。すぐに有沢に連絡して、事件は一気に進むだろう。

 けれど、本当か?

 美並の感覚は本当に正しいのか?

 乗り越えたはずの傷みが甦る。

 正しいと信じて伝えた助言、不安に思っても伝えなかったことば、どちらの先にも待っていたのは濃厚な死の気配、今度はそれが誰に襲いかかるのだろう、美並か、有沢か、それとも京介そのものにか。

「あ…っああっっ……い…やぁ…っっ」

 堪えかねたように啼く声、さっきまで少しは煽られていたその声が、犠牲者の悲鳴にすり替わったような気がして、冷や汗が背筋を伝う。

「…っく、そっ」

 指輪が重い。未練そのものだ。自分の幸福を手放したくなくて、踏み込むべき場所に踏み込まなかった後悔を、美並はまた繰り返すのか。

 けれどもし、ただの逢い引きだったとしたら。美並の妄想でしかなかったら。そうであってほしい。ただの、早朝の会社で行われている、非常識で扇情的なだけの場面であってほしい、けど。

 違う。

 歩き出す。トイレの中を小走りに抜ける。

 違う、違う、違う、あれは、これは、確かに「羽鳥」だ。

 今まさに、美並は「羽鳥」を標的に捉えようとしている。

「京介…っ」

 歯を食いしばって呻いた。

 力を。二度とあなたの悲鳴を聞かないための力を。あなたの傷みを繰り返さないための力を。

 力を、力を、力を。

 どうか、今の私に。

 自分の幸福しか願いたくない、この私に。

「くっ」

 トイレを飛び出す、廊下を蹴りつける、どうなったって構うもんか、今未来を引き換えに、過去を叩き潰してやる。

 まだ逃げられていないはず、男性用トイレに手をかけた、その矢先。

「おーい、伊吹さーんっ!」

「っ」

 場違いな、明るい、でっかい声が響いて立ち止まった。

「そこ、男子トイレーっ!」

 振り向いた先で高崎が、激しく手を振って、笑いながら駆け寄ってくる。

「女子トイレ、左ーっっ! そこ入っちゃだめーっっ!」

「……ありがとう……」

 気力が、萎えた。

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Last updated  2026.05.19 00:00:09
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