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2026.10.09
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 ちりん。

 風鈴が鳴って、美並は顔を上げる。

 さっきまで見えなかったのに、風鈴の背後には晴れ渡った青空があった。

 風が吹き抜ける。

『よく晴れたね』

 背後からやってきて、隣に立った人が微笑んで見下ろす。

『課長…』

 風に前髪を嬲らせて、そう言えば最近長めだった、とやさしく見上げる。

『いい風ですね』

『気持ちいいよ』

 皺一つないシャツに包まれた腕を差し上げて、ゆっくり伸びをする。閉じた目、頬に睫毛が影を落としている。

『長い間、曇っていた』

『はい』

『いつ止むのかわからない雨の中で』

『はい』

『どこにも行けず、どこにも還れず』

『…はい』

 それは美並の気持ちそのものだ。

 足元を見下ろすと、なんと裸足だった。ストッキングさえ履いていない。濃い緑の草原、所々に小さな白い花が咲いている。

『…ここは天国ですか』

 俯いたまま尋ねた。

『あなたは課長の姿をした、天使か何かで』

 裸足に草が触れる。くすぐったくて、それでも穏やかな日差しが気持ちいい。

『私はひょっとして、あれこれ踏み越えてしまったから、あの世界に戻れなくなったんですか』

 さっき見た赤来の棲まう闇の光景が、幻だとは思えなかった。孝の死の真相も真実ではなくとも近いのかもしれない。

 境界を踏み越えて、美並はとうとう世界から外されてしまったのか。

『もしそうだとしたら』

 隣のスラックス姿の真崎は静かに問い返す。

『君はここに来るのに躊躇した?』

『いいえ』

 即答した。

『決めていましたから』

 自分の能力をどう使えばいいのか、ずっと悩んでいた。どう使えば誰かの役に立てるのか。誰かの痛みを減らせるのか。意味があったと思えるのか。

 結論は酷くてシンプルだった。

 誰も傷つけずに、力を使うことはできない。

 ならば、問題は、いつ、誰に、どう使うか、それだけだ。

『課長を…尊敬しています』

 もう戻れないかもしれないが、それなら今この相手に、気持ちを素直に伝えておこう。ひょっとすると気まぐれで、真崎に届けてもらえるかもしれない。

『僕を?』

 訝しそうな口調も真崎そのままでくすりと笑う。

『はい』

『僕は情けなくてみっともなくて、迷ったり悩んだりいじけたりばかりしてる、つまんない男だよ』

 ああ確かに真崎ならそう言うだろう。

『美並の方がずっと凄い』

 柔らかく呟かれる声に涙が出そうになる。

『いいえ……いいえ、あなたは全然わかっていない』

 思わず反論する。裸足の爪に落ちた雫はないことにする。

『課長は、いつもちゃんと、わかってました』

 赤来と話した後だからこそ、よくわかるのかも知れないが。

『自分のしていることが、良いことなのか、悪いことなのか、いつもちゃんと考えてた。わからないとか、知らないとか、課長の身に起こったことで、そんな風にとぼけて良いことなんて山ほどあったのに、課長はいつもちゃんと決めていた』

 大輔に襲われたのは悪いこと。

 孝を探さなかったのは悪いこと。

 美並と出会ったのは良いこと。

 美並を守るのは良いこと。

『自分の不利になることも一杯あったのに、一つもないことなんかにしないで、全部抱えて、壊れかけてるのにちゃんと抱えて』

 恵子に巻き込まれたのは悪いこと。

 美並に愛されるのは良いこと。

『迷っても悩んでも、一つ一つ選んで決めて』

『正しくないこともあったよ』

『正しさなんて意味がないです』

 雫が数を増していく。足が濡れて風に冷える。

『もし、正しさがあるとしたら、自分が悪いことだと決めたことを絶対しないってことです』

 真崎は変わろうとし続けた。

『わからないとか、いつかとか、そう言うことばで逸らさないで』

 約束するから、美並。

 お願いだから、もう一度チャンスを。

 幸せになるから。

『あなたは何にもわかっていない』

 この能力を与えたのが誰かは知りませんし、知りたくもありませんが。

『私の願いを叶えてくれたのは京介だけです』

 だからこの後二度とあの世界へ戻れなくても後悔などしない。

『私は、私の能力を、かけがえのない相手に、二度とない時に、絶対必要な形で使いました』

 顔を上げる。

 びしょびしょになった顔を見下ろす、優しい真崎の笑顔に涙が溢れる。

『そのどこに後悔する要素がありますか』

『…美並』

 近寄ってきた真崎が顔を包んでキスしてくれる。

 額に、両頬に、そしてそっと抱き締めて、髪に。

『僕は、あなたを尊敬する』

 真崎の声は体を通して響くより、何か周囲の空気を震わせるように届いた。

『あなたが行なった全ての選択と、それに伴う全ての責務に、敬意を表する』

 愛しい人。

 大切な人。

『あなたの望むように』

 もう一度髪にキスが落とされる。

『それから…』

 くす、と小さく笑い声が漏れた。

『唇は彼に残しておこう』

 帰れる。

 閃いた確信に拳を握る。

『うっ……あああああ!!!』

 美並は、泣いた。





    第5章終了

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Last updated  2026.10.09 01:12:48
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