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2024.07.10
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「…そろそろここも危なくなってきたようです」

 イルファの声にレアナが顔を上げた。『氷の双宮』で退避する人々の選別をするアシャに付き添って、そのまま残るかと思われたのに、アシャと一緒に戻ってきて、労うイルファ達に強張った笑みを見せながら、それでもことば少なく沈み込んでいる。

 アシャはレアナを気遣う素振りは見せたものの、ユーノがラズーン内を見回って、未だ夜になろうというのに戻らないと聞いて、あっさり出かけた。もちろん、夜が明け次第、イルファやレスファートには早々に『氷の双宮』への退避を命じていたが、表情は厳しく、心ここに在らずという様子だった。

「…お支度を」

「…はい」

 促しに応じて、レアナはふらふらと立ち上がり、部屋の隅で持ち物を確認しているレスファートやジノの元に近寄り、それでもとても手伝える様子もなく、ぼんやりと座り込んでしまう。が、ふと、何を感じたのか、顔を上げて振り向いた。

「…アリオ様は」

「『西の姫君』は」

 ジノが幾分冷ややかな声で言い捨てる。

「アシャ様が戻られるまで動かないと言われて、お部屋に籠もられたまま、侍女も全て追い出されていますよ」

「部屋に?」

 不安そうにレアナが眉をひそめ、立ち上がる。

「先ほどアシャが戻ったのを誰も伝えていないのですか」

「お伝えはしました、が」

 ジノは溜息をついた。

「返答はありませんでしたので」

 忌々しげな口調から、どれほどアリオが周囲に疎まれていたのかよくわかる。だが、イルファもレアナと同じ不審を抱いた。

「出てこない? あのアシャを追いかけ回すことしか考えていない女が?」

「イルファ様…」

「一緒に見に行きましょう」

 アシャも関心がないのは明らかだが、それでも一人捨て置くわけにはいかないだろう。イルファは気がかりそうに頷くレスファートに頷き返し、レアナとともにアリオの居室に赴く。イルファ一人では踏み込めないが、レアナが同行しているのなら問題ないだろう。

 屋敷は不安げなざわめきに包まれていた。部屋を出ると確かに遠くに轟くような音が響いている。外壁の向こうの音にしては近いと気づく。

「ちょっと失礼」

 イルファは帯剣してレアナの前に立った。

「敵、でしょうか」

「かも知れないですね」

 レアナが頷き、イルファの背後に身を寄せる。賢い姫君なのだろう、とイルファは思う。平和な世であれば、十分賢くて魅力的な姫君だ。けれど、今この動乱の時期においては、自分で自分の身を守れない、それだけでも荷物になってしまうのは確かだ。ましてや、自分の闇を必死に背負おうとしているアシャには何の助けにもならない、可哀想だが、と肩を竦める。

 アリオの居室近くには人の気配がなかった。ほとんどがアシャの命令に応じて、退避の荷物をまとめ、レスファートやジノ達の側へ集まり始めている。

「…アリオ様」

 閉められた扉を、ことこととレアナは叩いた。

「お休みですか、アリオ様。アシャ様が戻られ、『氷の双宮』へ退避するようにと命じられています。一緒に参りましょう」

 応答はない。頷いたイルファに、唇を引き締めて、レアナは扉を開いて呆然とする。

「いない……」

 イルファは部屋に踏み入った。窓がしっかり閉められており、部屋に荒らされた様子はない。飾り物や荷物をまとめた様子はないが、人の気配が全くない。

「…イルファ様……上着の類がないようです」

「ふん……自分で出て行った、か?」

「でも、どこへ」

 確かにアリオは強気で負けず嫌いな女性だが、それでも『姫君』であり、一人でどこかへ向かうことはあり得ない。しかも、雨が降り風も出てきた悪天候の中、夜にかかろうとするこの時間に動き出すとは思えない。

「…」

 イルファは扉近くに跪いた。床に落ちている黒々とした泥を見つける。

「泥…? どこから、そんなものが」

「……こちらへ続いていますね」

 イルファは注意深く床を眺めた。廊下をそれと知って探せば見つかる泥汚れは、足跡に見えないこともない。奥まった方に進んでいく標を追って、イルファは庭に出る扉に辿り着き、開け放って顔を引き締めた。

 一面に広がる、重い武具をつけた足跡が雨に叩かれ濡れている。

「イルファ様?」

「…朝では遅い」

 イルファはすぐに向きを変えた。レアナを急き立て、廊下を戻る。背中に冷や汗が流れる。頭の中で素早く屋敷に残った人員を数え、舌打ちをする。戦えるものは数名に過ぎず、守る女子どもが多すぎる。いつの間に、あんなところまで侵入を許し、しかも誰にも気づかれず立ち去られた? 意図は何だ? そいつらはどこにいる? 今何をしている?

「すぐに『氷の双宮』に向かいましょう」

「で、でも」

「もうここは、戦場です」

「っ」

 レアナが青ざめる。そうだろう、こういうのが普通だな、とふいに苦笑が湧いた。ここのところ常識はずれの連中ばかりと付き合ってきたから、ずいぶん『当たり前』の反応が新鮮に見える。

「大丈夫ですよ、レアナ様」

 にかっと笑って見せる。

「外にはアシャもユーノもいる。まだ奴らが雪崩れ込んできているわけじゃない。何とかなります」

「あ…」「おっと」

 ぱん、と背中を叩いてやると、相手がよろめいたから慌てて支える。レスファートに見られていたら、だからイルファは、と詰られるところだ。

「ただ奴らの意図がわからないのが……誰だ」

 ふ、と少し先に気配が動いて、イルファは身構えた。レアナを背中に素早く庇う。

「ここに居た連中は、今南門内で野戦部隊(シーガリオン)とやり合っている」

 静かで虚ろで冷ややかな声が応じた。

「…セシ…公…?」

「『金羽根』にも『氷の双宮』への撤収を命じた」

 薄暗い廊下の端から揺らめくように姿を現した相手に、イルファは呆気に取られる。乱れた髪の毛、雨に濡れたのだろう、泥に汚れ、いつも冷然と煌びやかな美しさとは全く重ならない姿で、それでも瞳だけは異様に鋭く、セシ公はイルファを見据える。

「あんた、どうしたんだ」

 思わず尋ねたイルファに、セシ公はそそけ立ったような頬に苦い笑いを浮かべた。

「礼を失しているのは謝ろう。しかし今夜中に『氷の双宮』へ待避するのは正しい。ここももう、そう長くは持つまい」

「…どういうことだ。まさかラズーン外壁が破られたのか」

「…カート……いや、ジーフォ公が没した」

「は?」

 なぜそれを知っている、と続けようとしたイルファに、セシ公は首を振る。

「予定より早く、南門は開かれ、敵が入り込んだ。ラズーン内へ引き入れて展開する策は、不十分にしか展開できない。籠城するしか手がなくなるかも知れない」

「…アシャとユーノは知ってるのか」

「おそらくは、気づいているはずだ」

「……連絡も出せないほど、こっちが分断されているのか」

 セシ公が頷き、イルファは大きく息を吐く。

「わかった。急ぎ、『氷の双宮』へ避難だな。その後は、状況を見て俺も出る。守りはあんたに頼むぜ」

 それぐらいはできんだろ、と胸の奥で唸った声が聞こえたのかどうか、生気がない様子で頷くセシ公に、レアナが一歩踏み出す。震える声で、両手を握りしめながら問う。

「アリオ様がいらっしゃいません。何かご存知でしょうか」

 イルファは少しレアナを見直した。これだけ無茶苦茶な状況を突きつけられて、それでも踏ん張ろうとする努力は認めてやってもいい。

「…アリオも逝ったよ、ジーフォ公とともに」

 背中を向けたセシ公が密やかに答えを返し、微かに歯軋りの音を響かせた。

****************

 今までの話はこちら

 いやいや、もう2060000に近いのに、今更上げるなんて、と胸の中で声はするのですが。
 すぐに2060000来るから、置いておいてもいいのに。
 いや、それでもほら一応、全然間に合ってないけど、書けたから。
 次がまた10000ぐらい遅れそうだけど、それでもとにかく進められてるなら。

 と言うことで、再びの感謝を皆様に。
 なんだかラズーンはどうにもならないような気配がしてきましたが、それでもちゃんと予定通りには進んでおります。人の想いとは別に淡々と進んでいく現実が否応なく押し寄せてきて、誰が生き残れるのかいささか危うい様相です。
 それでもこれは、ハッピーエンドになります。
 何年かかろうとも。

 人生の変わり目と言うのは、いろいろ思いもかけないところで降りかかってきます。
 予想外。想定外。今回もそれだ。変わり目に突っ込まれてる最中です(笑)。
 けれどその翻弄されつつある中で初めて、メルマガ3本満杯までセットできました!
 ご愛読くださっており、しかも遅刻を繰り返す書き手を、温かく見守ってくださってる読者様。
 ありがとうございました。8月中旬までは予定通りに届きますよ!(当たり前ではないのか)
 で、『猫たちの時間』の『そして、別れの時』と『SSSシリーズ』とが終わったら(『ドラゴン・イン・ナ・シティ』はまだまだ終わらないです)、その空き枠で『これは〜』と『闇を〜』メルマガでやりますね。そうでもしなければ、書けないのかも知れないし。

 ではでは。
 お楽しみくださいませ。






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Last updated  2024.07.10 20:51:40
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