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前回に悪魔は人間の心の中に
棲みついている、と書きました。そして古代人は 総じて「魔」や悪の衝動は自分以外の 外部からやってくると、解釈していたらしい。そのように 私・草加の爺の意見を述べました。では何故、悪は、悪魔は 私たちの心の奥深くに棲みついてしまったのか? 答えは簡単です、それが楽しいから。 そんなバカな!人間存在は本質的に善であり、のみならず 崇高にして清らかな、そして美しい、尊い、その他諸々の 良き事の限りを集積した有難い何者かである。 そんな反論が、わたしの身内からも直ちに浮かんで参ります。 そうです、その通り!なにしろ万物の霊長たる 生物の中の長であり最高傑作なのですから。 しかし、歴史を御覧なさい。現実社会を虚心坦懐に そして、仔細に俯瞰してみて下さい……。如何ですか? まことに残念至極な実体でありますね。 どうして、こうなってしまったのか不思議ですね、実際のところ。 手掛かりがあります、それは、私たち人間が他の生き物たちの 尊い命を頂戴しないと生きることが出来ないからということ。 深遠にして絶妙な「神」の計らい。このsacred matter(神の配慮) に対してhuman matter(人間の営為)のミス・マッチ。 言葉で表現してしまえばあっけないほど単純なのですがね。 そのことの内包している問題は限りなく深く複雑です。 要は「中庸の徳」の至言に尽きるのですが、これには 懇切丁寧な解説が必要かも知れません。汝、むさぼるなかれ! こう下世話に言い直したほうが親切かも知れない。 毒は、猛毒は希釈すれば薬に変じる。逆もまたしかりで 薬も善も使い方次第では真逆になってしまう、現実というものの 逆説的あり方。人生は複雑にして怪奇な一面を さりげなく、何の前触れもなく、わたしたちの眼前に 差し出す瞬間があるのです。だからこそ面白い、などと言ったら 道学者(生真面目で世事に疎い学者先生)は目くじら立てて 叱責するかも知れませんね。個人の愉しみを「公(おおやけ)」の 場に無造作に、或いは無遠慮に持ち出すのは「悪」である。 公の場の善も、個人の心の中にまで無条件に持ち込むのも これまた危険であり、悪と変じる。この辺の公私の絶妙な使い分けが 大人の市民としての行動の基本であり、要諦であると同時に そのバランスされた中庸のありかた如何が 現代では特に大切なのですね、きっと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月16日 23時02分50秒
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