「太平記」 その五十七
中吉(なかぎり)の弥八がこれを聞いて、悪い奴ばらの振る舞いであるよ。いで、欲しがる物の具を取らせようぞ、と言うままに若党六騎が馬の鼻を並べて、懸りたりける。 欲心が熾盛(しじょう、激しい)なる野伏共は六騎の兵に懸け立てられ、蜘蛛の子を散らす如くに四角八方にぞ逃げ散る。 六騎の兵は六方に分かれて、逃げるのを追う事各数十町である。弥八は余りに長追いをしたので、野伏が二十余人返り合わせて、これを中に取り籠めた。 しかれども弥八は少しも怯まずに、その中の棟梁と見えたる敵に馳せ並べて、むずと組み、馬二匹の間にどうと落ちた。四五丈ばかり高い片岸の上から上に成り、下に成りして転んだが共に組みも離れもせずに深田の中に転び落ちにけり。 中吉は下になっているので挙げざまに一刀(ひとかたな)を刺さんとして腰の刀を探ったが、転ぶ時に抜けて落ちてしまったのか鞘だけがあって、刀はない。 上なる敵は中吉の胸板の上に乗り懸かって、鬢の髪を掴んで首を掻かんとしたところ、中吉は刀加えに(刀諸共)敵の小腕を丁(ちょう)と掬(にぎ)りすくめて(強く握る)、暫く聞き給え、申すべき事がある。御辺、今は決して我を恐れる必要なない。刀があればこそ、跳ね返して勝負を決しもしよう。又、続く味方も無いので落ち重なって我を扶ける者もいない。 されば御辺の手にかけて頸を取って出だされようともかつて首実検にも及ぶまい。高名(手柄、功名)にもならないぞ。我は六波羅の御雑色(鎌倉・室町時代に幕府の雑役に服した者)で六郎太郎と言う者で候が見知らぬ人はいないだろう。無用の下部の頸を取って罪を作り給わんよりは我が命を助けてたび候えかし。その悦びには六波羅殿の銭を隠して六千貫を埋めたる場所を知って候故に手引き申して御辺に所得させ奉らん、と言ったところ、誠とや思ったのか、抜いていた刀を鞘に差して下に居た中吉を引き起こして、命を助けただけではなくて、様々な引き出物(贈り物)をして、酒なんども勧めて京に連れて上ったので、弥八は六波羅の焼け跡に行き、正しく此処に埋められていたのであるが、早人が掘って取ってしまっているぞ。徳つけて奉らんと思ったのだが、耳のびく(耳朶)が薄く(運が悪い)おわしけると、欺いて空笑いをして引き返したのだ。 篠原の宿に 着御 梶井二品親王は 伊勢に赴かれ 更に 京都に帰られる 中吉は謀で運が開け、主上はその日に篠原の宿に御到着なされた。 ここで怪しげなる網代輿を尋ね出だして、徒歩立ちなる武士共は俄かに駕輿丁(かよちょう、貴人の駕輿を舁ぐ人夫)の如くになって御輿の前後をぞ仕った。 天台座主・梶井二品親王はこれまでお供申させ給いけるが、行く末とても道の程安く過ぎるとも覚えさせ給わぬので、いずくにても暫く立ち忍ぼうと思召して、御門徒に誰か候と御尋ねありけれども、去りぬる夜の路次(みちのほとり)の合戦に、或いは傷を蒙る留まって、或いは心変りして落ちてしまったのであろうか。 中納言僧都・經超(きょうちょう)、二位の寺主(てらじ、諸大寺・定額寺・じょうかくじなどの三綱、上座・寺主・都維那の一。一寺を知事する職位)浄勝の二人より外は供奉(ぐぶ)仕りたる出世(しゅっせ、清僧で、持仏堂の法事を勤める公家または公家の養子。出世者)・坊官(ぼうかん、門跡家の家司・けいし。妻帯歯黒で、門主に奉仕する僧。出世と同輩である)は一人もいない。と、申しければ、さては殊更長途の逆旅(逆は迎える、旅人を迎える旅舎だが、ここは旅のこと)叶うまじとてこれより引き別れて、伊勢の方にぞ赴かせ給う。 さらだに山立ち(山賊)が多い鈴鹿山である、飼っている馬に白い鞍を置いて召されたのは中々道の為に仇となるだろうと、馬を皆宿の主に賜りて、門主(もんじゅ、天台座主、ここは尊胤法親王)は長々と蹴垂れた長絹の御衣に檳榔(びんろう、棕櫚の葉で作った)の裏無しを召されて、經超僧都は衵(あこめ、男子が束帯・直垂姿・衣冠などの時に、単・ひとえの上、下襲の下に着た小袖)を重ねて着た黒衣に水晶の数珠を手に持って歩きかねている有様は、如何なる人もこれを見てはすはや。これこそは落人だと思わぬ者はあるべからず。 されども山王大師(円珍即ち智証大師の別号であるが、ここは山王権現・日吉神社言う。大師は仏の尊号であるから神を指すのはおかしいが、本地垂迹説に依る)の御加護にやよるのだろうか、道で行き遇う山路の樵(きこり)、野径の草刈、御手を引き、御腰を推して鈴鹿山を越し奉った。 さて、伊勢の神官鳴なる人をひたすらに頼みてありけるが、その神官は心有る身に難がるのも顧みずにとかく隠し置き参らせたので、此処に三十余日御忍びありて京都が少し静まったので、還御なして三四年の間は白毫院と言う所に御遁世の體で御坐ありける。 越後守仲時 已下 自害の事 官軍 先帝の 第五の宮を 奉戴して 六波羅税を 路に要撃する さるほどに、両六波羅は京都の合戦に打ち負けて、関東に落ちられる由が披露ありければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川(えちかわ)・小野・四十九院(しじゅうくいん)・摺針・番馬・さめがゐ)・柏原・その外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立ち、強盗、あぶれ者共が二三千人が一夜の内に馳せ集まって、先帝の第五の宮が御遁世の體で伊吹の麓に忍びて御坐あることを、大将に取り奉りて錦の御旗を差挙げて東山道(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八)第一の難所の番馬の宿の東である小山の峰に取り上り、崖の下に在る細道を中に挟んで待ちかけた。 先陣の糟谷宗秋 力 尽きる 夜が明けると、越後の守仲時は篠原の宿を立って、仙嗶(せんひつ、天子の車駕。行幸の行列)を重山の深きに促し奉る。 都を出た昨日までは供奉(ぐぶ)の兵は二千に余っていたが、次第に落ち散ってしまったのか今は僅かに七百騎にも足りないのだった。 もし後から追いかける事があれば、防ぎ矢を仕れ。とて、佐々木判官時信をば後陣に打たせられ(馬に乗って行かせ)、逆徒が道を塞ぐならば打ち散らして道を開けよ、とて糟谷三郎に先陣を打たせられた。