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碁や将棋を少しでも齧ったことのある
方ならお分かりでしょうが、説明が必要な向きも 少なからずいらっしゃるでしょうから、説明いたします。 「勝手読み」とはゲームの碁・将棋で、自分が指した手に 対して相手がどう応じるかを考える際に、自分の都合の好いように 自分勝手に相手の手を「読む」ことを意味します。 碁や将棋には色々な指して手がありまして、定石と呼ばれる 自分にも相手にも最善手と考えられる一連の「指し方のお手本」が あります。初心者は先ず一通りの定石を習い覚えることから 始めて、段々に腕を磨いていくわけですが、「勝手読み」は 初心者に多くみられることで定石を知らない為に、自分の都合だけで 相手の応手を考えてしまうことなのです。当然、相手の予想外の 好手をみて、頭を抱えてしまうことが間間あるわけですね。 これに類似したことが人生には沢山起こります。人生はゲームでは ありませんし、定石もありません。誰もが自分の信念や考えに従って 自由気ままに生きることが許されている。成功しようが、反対に 大失敗しようが銘々の勝手。誰からも非難されるような筋合いではない。 まったく、理屈ではその通りにちがいないのですが、実際は 違っています。他ならぬ自分自身から不満や不平、愚痴の数々。 それだけならまだよいのですが、そのうちに他人や社会に対する 批判・非難へとエスカレートします。自分の過失、無知や世間知らずを いわば棚にあげて、周囲の所為にする、つまり責任転化ですね。 この種の見当違いの怨嗟の声が予想外に多い事を、70年近い齢を 重ねて参りますといやでも知ることになる。実際、私自身について 反省するこの種の「見当違いの恨み言(事)」が多々ありました。 無知であること、学習しない事は恥なのではなく、「罪」なのですね。 誰に対する罪か。第一に自分自身に対する、同時に社会に対する。 お分かりでしょうか?筋違いな不平や不満はいたずらに人性や人間性 に対するとんでもない誤解や偏見を助長させ、結果として自分を含めた 人間不信へと負の連鎖を増幅させるだけ。生産性のある何者をも 決して生み出しはしないでしょう。歴史にまなびましょうよ。実人性からも 日々学習しようではありませんか、皆さん! 私はなにも学校での学習や学びだけが大切だと主張しているわけでは ありません。学びは人生をよりよく生きるためにこそ必要であり もっとも大切な要素のひとつなのですから。そして学びは少しも難しい 事柄ではありません。心がけだけです、必要なのは。上手に要領よく 学ぶだけが重要なのではなく、稚拙に「無様に」学ぶ事さえ、人生にとっては 必要な時がある。そう私・草加の爺は断言して憚りません、ハイ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月31日 10時53分22秒
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