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一体全体、教育は誰の為に行われるのでしょう?
そしてまた何の為に、つまりどんな目的でおこなわれるのでしょうか。 色々な目的があり、従って様々な答え方があると思います。曰く 国家の為に有為な人材を育てる為だ。いや、個人つまり市民が 豊かで有意義な人生を構築する為に必要な知識を施すのだ。いやいや やはり子供をこの世に送り出した親の責任として、立派な人物になり 立身出世をして一家を構え、延いては子孫繁栄・家名隆盛を図ってもらうのだ。 まだまだあります。企業や組織での新人教育や研修では、企業・組織の 目的に合致した有能な人材に育て上げること。つまり「実用」のための 教育ということが普通には最大の眼目となるでしょうね。しかし私・草加の爺は 敢えてこの大切な実用を越えたところに、教育の教育たる真の目的があるのだと 主張したいのであります。しかし、いい訳をするつもりではありませんが この真の目的を言葉で表現する事は想像以上に困難なことなのですね。 例えばプラトンはその書簡の中で次のように述べています。一番大切なことは 言葉では言い表す事ができない。プラトンはご承知のように膨大な量の 著作をのこしていますが、その中には彼が師・ソクラテスから決定的な そして重大な影響を受けた「人間にとって最も大切な事柄」については 何も表現できずに終わった。そういう一見信じがたい事実が、本当に 驚くべき告白が秘められているのでした。プラトンの師・ソクラテスは なにも美少年の「尻」ばかり追いかけていたわけではありませんで、内面の 美しさがそのまま肉体の美しさに反映している「素晴らしい若者」の 美しい魂に「一期一会」の万感の想いを込めながら、まさに入魂の教育を 直接的に施していたのでした。似非知識人のソフィスト(彼らは説得だけを事とし 真理や善などとは無縁のやからです)の目にはソクラテスの本当に貴い行為が 自分たちには理解不能であるがゆえに、胡乱で何か怪しげな、前途有為な若者に 害毒を及ぼす怪しからぬ行為と映った。まことに残念至極ではありますが、これは 時代や所を変えても繰り返し行われている事実で、今日でも本質は古代ギリシアと かわりません。この様に大変な「難事業」をわたしごときが易々と説明できる物 でもありませんが、誤解を恐れずに申し上げましょか。人間は、人間らしく 生きるとは只生きているだけではダメ。立派に、正しく生き、真実を追究する。 この世に生きてある間中その基本姿勢を変えないこと。人間として正しく 立派に生きるとはどういうことかを、常に自らに問い続けながら生きること。 このように書いてきましたら東洋にも同じ教えを弟子たちに語り伝えた 大先生がいましたね。そう孔子様のこと。蛇足ながら付け加えますと 万人がその様に生きなければいけないという意味ではありません。ただ理想として あるべき理想の姿を述べたまでです。しかし誰でも、才能も無く何の取り柄も ないと自らを評価している凡人でも、理想像を追うこと、たとえ稚拙でも 不満足でも、そこに向かって「完全燃焼」しさえすれば、十分な生甲斐と 十全な満足感とを容易く得る事はできるのです。これは理屈などでは有りません。 飽くまでも、そして徹頭徹尾、実践にかかわる真実なのです。是非とも 明日と言わず今日からでも騙されたと思って実践してみてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年05月16日 14時20分23秒
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