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刹那(せつな)とは梵語(サンスクリット語)で一寸の間の意で、
極めて短い時間。瞬間を意味します。ですから刹那主義とは その瞬間の感覚・生活を充実させて生きようとする主義。従って 文字通りの意味では、私たちに与えられているのは「永遠の今」なのだから その今を完全燃焼させて生きようとする極めて現世肯定的な生き方と 何ら変わりがないと、一見思われる。しかし、現実には天と地ほどの 大きな隔たりが出て来る。それは何故か?私、草加の爺はこう考える。 刹那主義は根本のところで「生」、私たちに平等に与えられている 現世での生命活動を素直に、素朴に肯定できない。一瞬先は 真っ暗闇で、いつ何時恐ろしい災難が襲ってきて、死の真っ暗闇に 突き落とされるかも知れない。その恐怖感が片時も頭を離れない。勢い 刹那、短い間でも良いから可能な限りの楽しみを、快楽を「貪ろう」 という方向に走りがちに成る。一人の人間とは実に弱く、儚い存在ですからね。 明日が有るという確たる保証など誰にも与えられてはいない、実際の所。 それに対して私がお勧めしている、現在・今という時間を大切に完全燃焼 させ、生甲斐につなげる生き方は根本のところで先の刹那主義とは 全く違っている。先ず最初に人生肯定の確固たる基盤が有る。信念が有る。 徒に明日の事を不安に感じたりはしない。今与えられているこの瞬間・瞬間を 完全に燃焼させる事だけに意識を集中させ、ほかの事は何も念頭に置かない。 今とは「永遠」の別名であると本能で承知している、そういう生き方。 不安など微塵も抱かない。そうした生き方からはシッカリとした生甲斐 だけが浮かび上がってくるのであって、諸々の不安などは忘れるほどに充実した 生き方なのですね。だから、悔いなどは残りようが無い。絶対を信じ 絶対に抱かれている確信だけがあるのみ。丁度、十字架に磔にあった キリストその人であるかのように。何者も恐れたりはしない。カイザルのものは カイザルに、と完全燃焼主義者にはそうも言える、当然ながら。一見は 同じように見えて、全く違っている、如何でしょう?ご納得がいきましたか。 よくよくご自分の胸に手を当てて、じっくりと考えを深めてみて下さいませ。 以前に書いたのですが、「奴隷根性」や「被害者意識」を捨てて 健全な、真っ直ぐな精神を取り戻し、明るく楽しい、また実りある人生を 各自が創意・工夫によって実現しようではあるませんか―。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月27日 14時22分14秒
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