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8 生命の意義について、特に「遊び」の意義について
六回目 精神界の王者にしてもイエスの死は、余りにも力なく 弱々し過ぎる最後だとは思いませんか、みなさんは。ユダの裏切りに あい、ゴルゴダの刑場までの道行きの場面などを、たとえば映画などで 見る時などは特にそう感じました。しかしながら、視点を変えてみると、 全く別の意味が 露に なっていることに、気づかされる。ええ、 神の立場、演出者側の立場に立てば、その意図がなへんにあったのかが 明確に、浮かび上がってくるではありませんか、ええ、その通り。 力弱い一人の受肉者の境遇にあって、彼イエスほど苦しみや、受難の 圧迫に耐え続けることの出来た「人間」は他に誰もいないのですから。過去においても 恐らくは今後においても。極限の苦しみ、磔刑の最後の時イエスは 「アッバ(お父ちゃん)」と叫んだと伝えられていますが、かつて自分が 天の神から遣わされたあのメシアであることを一も二もなく大勢の 人々に了解させる為に、実に恐るべき力を発揮し数々の奇跡をおこさせた イエスとはまるで別人であるかのような変貌振りです。 やはり、私はイエスが偉大な、そして比類のない素晴らしい詩人 だったことを強調したい。芸術家の中の芸術家・イエス。芸術の 本質には遊び、遊戯性があります。我々一人ひとりを憂き世の辛い 頸木から解放する真の救いがある。福音とは、イエスの説く神の便り 福音とは、そのことの中に象徴的に示されている――。そんな風に、 無理を承知で強弁したい誘惑にさえ、駆られますが、今はその時ではありません。 人類の師と呼ばれる、古代ギリシャの賢人・ソクラテスは彼が心底から 愛している国家が、自分に死を命ずるならと、国外に逃亡を勧める 友人達の言葉を制して、自ら進んで毒杯を仰いで従容として死に赴いた と言います。古代の偉人のまことに見事としか言いようのない最後と 比べる時、イエスの対照的な死に方は、我々に何か非常に大事な事を 告げようとしている。そんな具合に、考えを進めてきた私は、次のような 結論に到達していたのです、はい。 つまり、私達人間はこの世に生を享けて、様々な辛い事、困難なこと。 悲しいことに次々に見舞われ、その都度、落胆したり、絶望の淵に沈んだり しますが、それはとても、孤独にして無力な一個人には耐え得ないことです。 そこで死が、そしてそれに続く復活が必要なのですね。勿論、本当の 死ではなく仮の「死」と「復活」。そうです、通過儀礼としての仮死と 再生を通して、私たちは自分の心・精神・魂(たましい)を健全・健康に、 正常な状態に保ち続ける必要性があるのです。そして勿論、それらと 密接に関係している身体・肉体も真の意味で初めて健康かつ正常に保つ事が可能になる。 そのことを、イエスの生涯は、その極めてドラマティックな最後も含めて 私たちに教えようとしているのではありますまいか。 今現在の私自身の関心と意識のあり方がそうさせるのか、カタルシスと イニシエーションの方に引き寄せ過ぎたきらいがあるにせよ、この様な 解釈にも十分な根拠があるのですよ、ええ。 イエスの説くところの天国は、この地上に、既にあるのですね。 人々が、各自の心の中にそれを、天国を招き入れる用意さえすれば なのですが……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年12月17日 08時57分37秒
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