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言葉というものは実に不思議なものでして
生徒に対して投げかけた同じ言葉が、翌日には ブーメランのように自分の身に、違った意味合いを 帯びて襲い掛かってくる。前に書いたことですが、これは 昔の人が「言霊」と呼んだ言葉の持つ不思議な働きの ほんの一部分にしか過ぎません。言葉は最も行動的な性格をもった ツール・道具、と呼んだだけでは全く不十分でして、思い切って 言い切ってしまえば、自分自身の「分身」に等しい確たる存在者 なのでありますよ。良い意味でも、反対に悪い意味でも、でありますね。 したがって、悪い言葉遣いをしていると、その自分の悪い言語習慣に 感化されて、行動全体が乱れて、崩れて、だらしなくなってしまう。 従って、言葉遣いの問題は単なる「国語の問題」に留まらないことは 当然過ぎるくらいに、当然の事なのです。理解という事についても 同じような事が言えるでしょう。つまり、自分を過少にしか理解していないと その程度の自分しか、実現してこない。それでは、自分を過大に理解して その様に振舞えば、「過大な自己」が出現するのかというと、然り、 そして否、と答えざるをえません。この場合にも、言葉と自分との調和 を正しく計るという作業が、非常に大切になってきます、はい。言葉に 対して責任を取る。乃至は、責任の取れる言葉遣いをする心がけが肝要なのであります。 いずれにしても、言葉を何よりも大切に思い、文字通り、感謝の誠を捧げながら 日々の生活の中で交流を深めていく。そうした真摯な態度こそ、人間として また、社会人として第一に心掛ける必要がある。そうしなければいけない。 マザータング・母国語とはいみじくも名付けたものと、つくづく感心しますね。 日本人はもっと日本語に感謝し、古典に感謝し、古人を鑑として己を磨く 習慣を取り戻さなければ、いけないのです、絶対に。素晴らしい、理想的な 嘗ての分身、あり得た、そしてこれからも心掛け次第では取り戻す事が可能な 生き方、感受性のあり方、精神性、その他諸々の様々な美徳を、身近な場所から 学び取る事が許されているのですからね、日本人は。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年09月05日 14時44分15秒
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