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第 五十五 回 目 所が、先程、食器の後片付けを悦子に手伝わせながら、春美が例の男の子からの最新の手紙を読んでいなければ知ら ない筈の話題を、ついうっかり口にのぼせてしまったのだ。「お母さんは、また私の手紙を内緒で、盗み見した」と言 って、悦子が母親を非難し、春美も「母親には子供の行動を見守り、間違いが起こらないように気を配る、義務と権利 があるのだ。心配な男の子からの手紙に目を通すのは、親として当然の事なのだ」と主張した。すると、悦子の方は 「子供とは言っても、人の、個人的な通信内容を 検閲する のは、人権侵害だ」と、どこで覚えてくるのか、ませた 口調で遣り返す。と言った具合なのであった。 教室では、もっともらしい顔をして、中学生達に文部省の定めた道徳・倫理を教える父親も、我が子の悦子や、それ より二歳年下の妹・和恵たち暴君の前では、歯が立たなかった。家庭内の躾は態良く妻に押し付けて、自分は当たらず 触らずの傍観者的立場を、極力は堅持する方針の保臣も、今夜のような場合には、自分の態度を表明しなくては済まさ れない嵌めに、陥るのである。 「母さんだって、悪意があってお前の手紙を見ている訳ではないのだから、そんな検閲だとか、人権侵害だとかと、 おかしな事を言わないで、今度からは、手紙の内容を読んだあとで、母さんに報告するようにしなさい。そうすれば母 さんだって、安心するだろうから」 妻と長女の顔を半々に見比べながら、そう、やっとのことで厳かな託宣を述べ終わると、彼は書斎へと取って返し た。居間で一人、我関せずといった涼しい顔で、宿題をやっていた次女の和恵が、廊下を通り過ぎりる父親の方にやに わに顔を向けると、「パパ、恰好いい」と言って、片目をつぶって見せた。悦子以上におませなこの次女は、謹厳な教 師・眞木保臣が、この世で一番の畏敬の念を抱いている、異性であった。 ―― 丸二日間というもの、義清は見知らぬ少女の屋敷で、傷の手当てと心のこもった看護を、臈闌けた女房達から 受けた。得も言われぬ妙なる匂いを放つ、名香の薫りが、義清の横臥する柔らかな夜具の中にも、微かに忍び入ってき た。その香気の霊妙なる調べに伴われて、時折彼の耳に達する、誠に仄かな衣擦れの音と、静かで控えめな咳(しわぶ き)の音だけが、深い静寂が領している部屋に届いてくる、人間の気配の全てであった。 幸い、義清の受けた手疵に致命傷はなく、ただ全身に渡る疼くような痛みの洪水だけが、間歇的に打ち寄せる激浪の 如くに、若者の肉体を苛み、苦しめるのだった。若者は、切れ切れに、多くの夢を見た。 幼い童の頃の、楽しい思い出の中に、義清は先刻の不思議な美しさを漂わせた乙女と共に、戯れ興じた。夢の中で、 乙女は義清の幼馴染の友、であるらしかった。隠れ遊び、また、土遊び。無心に遊び興じる二人の幼い背中に、桜花の 大きな花瓣(はなびら)が、はらはらと散りかかる。乙女の愛らしい耳朶に似た、一片の花瓣が義清の掌に止まっ た…。今度は、竹馬に乗った彼の前を、乙女が可愛い笑い声を上げながら、逃げる。追い詰められて、振り返った乙女 の、愛嬌のある唇が、真紅の野苺の実に、変わった。乙女の謎の様な表情を湛えた、青い瞳が、観音像のそれの如く に、優しく笑っている。と、今度は靉靆たる靄の立ち込めた、夕暮れである。柔らかな、金色の光が、山の端に沈みか かった大きな日輪から、射している。そして、どこからか哀調を帯びた麦笛の音が、長く、微かに、聞こえてくる。 ― あれは自分が乙女に、教えたもの。近くで、蟋蟀(きりぎりす)の絶え絶えに鳴く声が、幼い義清の悲しみの心 を、言い表すが如くに起こった。今日はとうとう、乙女とは会えず仕舞…デ、くれてしまった―、……夢は、その悲し みの気分を、現に引摺り残して、醒めていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年04月16日 11時41分36秒
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