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第 六十五 回 目 既に二人は、逢瀬を遂げていると主張する者までいるとか― 公能はその噂に対しても 立腹していた。仮に、噂だけだったにもせよ、そのような噂が人々の口に囁かれるには、 それなりの根拠が、義清の不心得な所業があったに相違ない。公能は、そう決めつけた。 義清は昨夜の不思議な 懸想文 を憶い起こしていた。人々は皆あれを、懸想文と噂しているようであるが 文字の書かれていない文などというものが、一体あるのだろうか?女房から手渡された あの薄紅色の紙片には、小さな墨痕さえ印されてはいなかったのである。その上に 噂では、事実とは逆に、義清の方が女房に文を渡したことにされていた。しかし、そのような 口さがない世間の取り沙汰など、義清にとって問題ではなかった。心ある人は、そのような 馬鹿げた話を、まともには考えないであろう。時間が、先の正忠の一件の時のように、己の 潔白を証明してくれるであろうから。 公能は義清が唯凝然として視線を中空に据え、自分の面罵に耐えているのを、半ば呆れ 半ばは恐れをなした如くに、一時の憤激が口を衝いて出た語句と一緒に、吐き出されて 収まると、実にばつの悪そうな表情を、持ち前の気弱そのもの面に浮かべて、 「義清、お主とは今日限り絶好だ、よう覚えておけ!」 そんな風に捨て台詞を投げつけると、馬にひと鞭当て、そそくさと屋敷を出て行ってしまった。 公能が言い残して行った事柄は、全部が全部、根の葉もない嘘っぱちであり、不当な 言いがかりというものであった。確かに、そうには違いないのであるが、義清の胸には 微かな苦い滓のような物が残った。それがどこから来るかと言えば、やはり彼が自ら播いた 種――、奇妙な 自責の念 と形容しなければならない、性質のものだった。院へ向かう道すがら 袂に忍ばせてきた例の文を取り出して、鼻の先にあてがった義清は、「やはり、そうであったか」 と口の中で、小さく呟いていた。 昨夜遅く、と言うよりは今朝の払暁前、勤めを果たして屋敷に戻った彼は、自分の部屋に 一人籠って文を開いた。妻に対する遠慮と、疚しさの感情。期待と不安が錯綜した、妖しい胸の 昂ぶり。あの瞬間の、あのような唯ならぬ心の動揺は、一体何に由来するものだったのか? あたかも罪人であるかのような意識…、理由もなくワクワクする心、甘美な誘惑。あの惑溺の 正体は一体全体、何だったのだろう…。あのような心理状態は、少なくともそれに類似した 心理の蠢きは、待賢門院の時にも働いていなかっただろうか?確かに、自分はそれを一応は 否定し切ることは出来る。が、本当に「お前の心は清浄で、潔白であり続けたか」、そう 耳元で囁く悪鬼の声が、聞こえないわけでは無かったので…。 紙片を開いてみた瞬間、ひどく拍子抜けがして、全身から急に力が抜けた。実際、狐にでも つままれた思いだった。文字の書かれていない薄紅色の文からは、微かな薫物の香りが、仄かに 仄かに、漂よい出ていた。一瞬間、なぜかこの様な経験を以前にも、何処かでしたことがあるような 気が、ふっと起こったのである。ーーーやはり、そうに違いない、あの碧い色の瞳をした乙女が この文を自分に送った相手なのだ。この時初めて義清は、院の今をときめく女御・藤原得子こそ あの謎の乙女であったことに、気附いたのである。 開け放たれた窓から、涼しい秋風が静かに流れ込み、机の上の教員用教科書のページを パラパラと捲った。 いつの間にか眞木はまた、佐々木法子の事を考えていた。法子と、彼が顔を見たこともない 評判の悪い、若い母親のことを。あの少女の躯にも、母親と同じ淫蕩な、男好きな血が流れているのかしらん。 通経もまだらしく見える、硬い蕾のようなあの少女も、言い知れぬ血の疼きに人知れず悩み、 正体不明の黒い影に、密かに脅えているのであろうか…。そんな隠微で淫らな妄想が、彼の 脳裏を掠めた。キリギリスの遠慮がちな鳴き声が、さっきから下の裏庭の方で、聞こえている。 日中は残暑が厳しく、蒸し暑さが依然として続いているが、日が沈んで辺りが暗くなる頃にはもう 秋らしい冷気と風情が、郊外にある新興住宅地であるこの界隈には、顕著であった。十五夜を 過ぎたばかりの皓々たる月の姿が、窓の間から覗いている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年06月19日 06時46分30秒
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