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第 九十五 回 目
西行は空海ゆかりの地に庵を結んで、一年余りの月日を送った。 静かに読経し、春秋の自然を愛で、偉大なる先人の業績と思想を心から偲ぶ、充実した 生活であった。自分自身の来し方を、空海との比較に於いて眺めみる、反省の時であった。 今、己の人生の秋を迎えて、沁み沁みと感じることは、自分の身の卑小さであり、自然の 偉大さであった。その偉大な自然は何処か母親の胎内を思わせる所があり、その自然の摂理 が、玄妙不可思議な力の作用で、自分を育(はぐく)み、励ましてくれていた様に感じる。 その中で自分は一体何事を為し、何をし遂せたと言い得るのか…? 唯、嬰児の如く訳も無く子宮の海に漂い、彷徨っていただけに、過ぎない。自分は単に その時々の感情と気分の動きに左右されて、何処とも知れず押し流され、押し流されした 夢の中の記憶の様にも、想える。夢の中での行動が、決して自分の考えや意思の通りには 展開しないように、一年前の自分が望み、願った如くには現実はいつも推移しなかったし、 第一、自分自身の気持の動き自体が、予測のつかない正体不明の代物だった。 自分の心の中に、しっかりとした考えなり、意志なりがあると思うのは、全くの錯覚であり、 事実は正に 支離滅裂 に近い状態だった。 ー 酔生夢死とは誠に言い得て妙な表現では あるまいか…。同じく意の如くにならない人生なら、潔く覚悟を固めて、この世での夢を 心ゆくまで、堪能満喫し尽くそうではないか!……桜の花の美しさに酔い痴れて、その果に 頓死出来たなら、本望というもの。 そうした徹底した生き方さえ完全に把握し得た暁には、西行にとって弘法大師空海も、単に 過去の尊敬すべき偉人であるに、留まらない。西行と共に生き、共に語る隣人として、新たに 現前するであろう。 ―― そんな風に心が定まった時、西行の胸には既に、この地を辞去する決意が、萌していた。 何時までこの地に留まろうとも、はっきり決めていた訣では無かった。場合によっては五年、十年、 いや死ぬまで逗留する事になるかも知れないと、密かに思い設けてもいた。これから何処を 目指して旅する目当てとて無かった。唯、只管西の方を指して歩み続ける事が、己に残された 生きる道であると思えた。その旅路の涯てに、何が自分を待っているのか、皆目見当もつかない のであるが、それで十分であった。 ……… 眞木は再び咳払いを連発して、自分の動揺した心を落ち着かせようと、苦慮した。 額の辺にじっとりと脂汗が滲み出ているのが解るし、脈拍も平常の倍近い速さで搏動している。 彼はほんの数秒間、意識を失って、肘掛け椅子の中に、崩れ込んだ様であった。 ― 気が付く と、佐々木法子の心配そうな顔が間近に迫って、何事か彼に語りかけている。彼は、心配ない、 大丈夫だ、と答えようとしたが、言葉が喉に閊えて声にならない…、やがて眞木は深い深い 昏睡状態に陥った―― ―― その深い、深い眠りの中で、眞木は自分が天国に遊ぶ夢を、見た。否、天国とか、 極楽とか呼ばれるのは、あんな風な所を指すのだろうと思うだけで、実際は、其処が何処であった のか、一向に判然としない。また、どのような手段でその天国の如き場所に、行くことになった のか、夢の最初の部分が丸々記憶から欠落しているので、全く思い出すことが出来ない。 彼が辛うじて思い出すのは、その一番最初のシーンでは、一面に葦などが生い茂った水辺から、 一羽の白鳥がゆっくりと飛び立って行く。その姿が、鮮明な映像として焼きついている。 自分から次第に遠ざかっていく大白鳥の姿を眼で追いながら、何故か彼は非常に悲しかった。 兎に角、身も世も無く哀しく、出来れば大声を挙げて泣き叫びたい、衝動に駆られていた。しかし 声を出すことは愚か、身動き一つ叶わない自分であることを、何故か良く承知していた…、大粒 の涙だけが、彼の頬を伝わって、止めどなく流れ落ちた。その時であった、果てし無い天涯の 彼方を目指して、真一文字に天空を天翔ていた彼の白鳥が、突然にくるりと向きを換えると同時に、 大きく弧を描いて、旋回を始めている。一旋、二旋、風に戯れる如く、或いは又、何かを逡巡する が如くに、白鳥は紺碧の空に、鮮やかな白い円弧の軌跡を浮かび上がらせる……。 気がついた時、彼の身体は鳥の様に、宙に浮かんでいる。彼は文字通り、天にも登らんばかり、 大喜びで例の白鳥の後を一散に、追った。見ると、白鳥は彼が自分の後を追って、地上から舞い上がった ことを確認した安堵感を、全身で表現するかのように、最前より遥かに軽々と、また嬉々として 翼を羽ばたかせている。純白の羽毛の一本一本に煌く真昼の太陽の光を受けて、大空を行く白鳥の 絵のような姿は、既にこの世の物ならぬ、崇高な気配さえ見せている。 彼と美しい白鳥との距離は見る間に縮まって、今では「彼女」の表情さえ、明らかに見て取れる…。 白鳥はやはり佐々木法子の化身であった。何故、やはり、なのか理由は明確でない。そして、 その時になって彼が意外に感じたのは、少女が変身したその美しい白鳥の体躯が、思いのほかに 小さいということ。遠くから眺めていた際には、実際の数倍もある堂々たる大白鳥とばかり、 思い込んでいたのだから。 やがて彼等の行く手に、一団の巨大な雲塊が迫ってきた、と思う次の瞬間には、二人の姿は すっぽりと乳白色の霧の渦に、呑み込まれてしまっていた…。それから、どれくらいの時間が経過 したのか、見当もつかない。彼は半ば放心したように、どこまでも続く乳白色の世界を、かなりの 速度で前進していることだけを、頭の中で意識していた。と、誰かの手が、彼の手に軽く触れた ように感じて、ふと、我に還った。彼の傍らには、清潔そうな水玉模様のワンピースを着た、佐々木 法子が立っている…。彼女の掌の感触と、彼の面に注がれた黒目勝ちの瞳一杯に湛えられた、何とも 懐かしげな表情とが、彼の疲弊し切った身体と、孤独に閉じ込められていた心とに、滲み透る 様に思われる―、彼は年甲斐もなく涙ぐんでしまった。法子はそんな彼の様子など頓着しない、 無邪気そのものの態度で、彼の手を引くと、先に立って軽やかな足取りを、運んでいく…。 春の野にピクニックを楽しむ恋人同士みたいに。いつの間にか、彼の足も法子に釣られて、 弾む如く前に進む。楽しい口笛など、吹きたい心地さえ湧いてきて……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月18日 19時30分41秒
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