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第 二百六十四 回 目
「 引かれ者の小唄、或いは、人生様々で良い 」 先日(平成29年十月五日)に草加の爺はあるパーティーに参加してきた。私とし ては珍しく、十四年の長きに渡ってお世話になっている大手学習塾の、大切な担当 生徒の授業をお休みにしての、異例の行動だった。 それと言うのも、そのパーティーは私の唯一、人生の恩人と呼び得る非常に 大切に思っているお人の、最後のプロデュース作品だったから。 そこで感じた偶感といったものを、少し書き綴ってみたいと思います。 私にとって大切なお方とは、実名を出しましょうか、故・能村庸一氏のこと。 氏は在京キー局の、謂わばエリートコースを進まれ、テレビ時代劇の大プロデュー サーとして最初にして最後の極めて特異な立場を、傍目には羨ましいくらいの 輝かしい実績で締めくくられた。 組織論の中で、ラインとスタッフという考え方がある。初めは軍隊の組織から 来ているようで、スタッフとは謂わば 参謀 の役割を言う。大きな組織で命令系 統の組織の頂点に立つ人が、社長・会長である。 能村氏を偲ぶ会には、当然ながら歴代の社長や会長が参列され、ご挨拶をされた が、今は業界の外に生きている私にとって、その挨拶の内容が会の趣旨にまるで そぐわないもの。そんな風に感じられてならなかった。 彼らラインのトップに立った者の立場からすれば、大参謀格で業界から絶賛・大 賛辞の祝福を受けている、特異な能村氏の立場が特別に羨ましく、又腹立たしい 程に妬ましかったのではあるまいか?そんなひねくれた偏見が、もしかしたら正鵠 を射ているかも知れない、と思わせるような、ユニーク過ぎる水際だった鮮やかな 能村さんのキャリアであり、偉業だったから……。 考えてもご覧なさい。一流企業のトップに立つということは、傍目には華やかで 晴がましいことばかりのように、映っていても、他人には窺い知れない大変な面倒 や苦労が、心労が山積しているに間違いないのですからね。 それを「ノムの奴」は、好きな仕事を玩具代わりにして、苦労どころかとことん 楽しみ切って、そして涼しい顔をして娑婆を旅立ってしまった、のだから。ムカッ 腹も起とうというもの。 ここからは話を飛躍させて、草加の爺の我田引水的な話題に転換させますよ。 表題に掲げた 引かれ者の小唄 ですが、諺の本来の意味は、重罪を犯して刑場に 引き立てられて行く者が、悔し紛れに小唄など口ずさんでいる。そう言って相手を嘲笑する 表現なのですが、私は意図的に曲げた解釈をここに付け加えたいと、考えました。 引かれ者にさえ、小唄を歌う自由と権利が与えられている。つまり、その様な心の ゆとりを当事者が持つことが、出来さえすればのお話ですが。 心頭滅却すれば火も又涼し、と喝破した道人もいることですし。 駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、と江戸時代の人は言っています。 この世に生きる人は様々・色々、通常なら歩いていく人が大勢いる中で、駕籠に乗って旅する 裕福で恵まれたお方もいる。そうかと思いと、そのお金持ちを駕籠に乗せて、ご飯を食べなくては 生きていけない貧乏人もいる。いやいや、もっと大変な生き方を強いられている者も居るよ。 その駕篭舁きの草鞋を編んで生計を、やっとこさ立てている極貧の人間もいるのだから、 各人、人様々で、世の中広いし、楽しいではないか…。 金持ちや権力者は必ずしも幸福ではない。同時に、貧乏人や名もない庶民も非常に幸福で あり得る。貧乏人は必然的に不幸ではない。何故なら、偉大なる創造者であり、大演出者たる 神様が存在されているから。信ずる者は救われる、のでは無く、信じないものですら、現に 救われているのですからね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年10月13日 16時10分38秒
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