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第 三百十六 回 目
私流の俳優論の第二回目になります。私は前に、私たちの行動や思考は、途中で中断され、完結をみな いままで次へ、次へと厭応なしで移らされている。その結果のストレスが積もりに積もって無意識の中に 滓の如くに堆積し、その堆積物からやがて有害なガスの如きものが、発生して私たちの精神に悪影響をも たらしている。そう指摘致しました。中途半端に終わっているということを言えば、私たちの能力や性格 に関しても、類似の事柄が言える。 つまり、私たちは通常「無限の可能性」を秘めていると称されますし、事実そうであろうと首肯できる のですが、私たちはそれを十全に発揮できてはいない。それは、その事実は明々白々でありましょう。 しかし、なぜそうなのかを深く追求する人は、断然少数派に属します。これに関しても、何故なのかと 疑問を抱かないのが、むしろ不思議なくらいに誰もがこれらの重要事項に、関心が薄いように少なくとも 私・草加の爺には感じられて仕方がない。 現実とは次元を異にするフィクション・虚構の世界ではあらゆる事が、全部が全部許されるし、また 行動の自由が保障されます。役者は「己の役柄の必要に応じて」、極悪非道を押し通すことが可能であり ます。であるばかりではなく、とことんまで、厭というほど悪の限りを尽くして、観客に示す「義務」 さえも課されている。なんて素晴らしい理想世界ではありませんか。何事にしても、それを徹底的に追及 出来て、最後まで行きつくことが許されているなんて。 悲しみにしても同様ですね。悲劇の主人公は、或いは薄倖のヒロインは悲しみの極みまで、自己の負っ た不幸をたどり、行きつくことが可能なのです。しかし、しかし、現実の次元では決してそれはあり得な い事と、相場は決まっておりますよ。しかも、悪事の限りを尽くし切った悪党は、その極悪非道の限りを 尽くした果ての懲罰として、悲惨な最期を遂げるが、幕が下りた瞬間には、何事も無かった如くに、軽や かに幸福そうな笑みさえ浮かべながら、舞台を去ることが出来る。 悲劇のヒロインもまた同様です。愁嘆場の極限まで行き着いて、薄幸の最たる死を迎えたあと、終幕 と同時に喜々として健康な現実社会に、幸福そのものの状態で復帰する。それが俳優の特権であると言え る。 同時に、名優の最高の名演技によって完璧なカタルシスを体験し終えた観客もまた、自分の心の内部で くすぶり続けていた未消化な滓としてのストレスが、綺麗さっぱりと拭い去られ、すがすがしい気持を 取戻して家路を辿ることが出来る。何の憂いもなく。 これが劇・ドラマの得難い効用であります、実に有難く、勿体無い功徳というもの。 所が、実際の芝居やドラマではそれが十分に為されてはいない。未消化であり、中途半端のままでラス トを迎えてしまう事が多い。何故か? 色々と考えられるでしょうが、実際に行われた江戸歌舞伎や劇映画の歴史を概観してみると、少なくと も次のような点が原因として挙げられるでしょう。つまりは、ショーであり興行として実施され主として 娯楽やパスタイムを目的として演じられましたので、劇的な効果を最大限に狙うと言うよりは、客受け、 従って興行収入という金銭勘定がどうしても先に立ってしまう。俗受けでよいからと、兎に角、木戸銭や 入場料の多寡に関心が集まってしまう。勢い役者も「銭が多く取れるかどうか」という観点からの評価 が、主たるものにならざるを得ない。 映画の歴史でも同様ですよ。監督システム、俳優システムと言われた制度にしても、全部が全部「営業 収益」に直結した配慮からの措置にほかならなかった。喰えなくては話にならなかった。 話は突然に飛躍するように感じられるかも知れませんが、例えば現在非常な人気・関心の高まりを見せ ているサッカーの世界大会を取り上げて、話を進めてみましょうか。野辺地町出身の柴崎 岳選手なども 日本代表チームの中でも注目を集めている一人ですが、何といってもサポーターの熱気が異常としか言い ようがない程。どうしてこれ程までにブームを呼び起こしているのか? 人によって様々な要因を挙げら れるでしょうし、それなりの根拠もあるのでしょう。 私は、次の事を指摘してみたい。劇が本来果たすべき役割が然るべき社会的な広がりの中で、その在る べき位置に居ない。これこそが根本の要因ではないかと愚考致すものでありますね、はい、そう主張した い。俳優・役者の代替者としてプレーヤーが居り、観客の立場にはサポーターと呼ばれる応援グループ がいる。そして、サポーターたちは間違いなくカタルシス、大きな感動に伴う心の浄化を期待して、ピッ チに立つ選手たちに熱い声援を送り、巨大なエネルギーを消費し尽くしている、のだと。 この現象は何もサッカーだけに限りませんし、人気のスポーツ全般に通用する。それだけでなく、人気 のグループやアイドルによるコンサート会場に何万人というファンの群れが、歓喜して集合する現象も 同様な解釈や、説明がなし得る、間違いなく。 人々は「飢えている」のでありますよ、強烈な感動を伴う魂の解放と完全なるカタルシス・大いなる 癒しの体験とに。本来ならば劇・ドラマ・芝居が果たさなければならない社会的な役目が、すっかり忘れ 去られてしまっているので、自己防衛本能が働いて、代替物・偽物(似せもの)に縋り付いてでも健康な 生理を取戻したいと願う、切実で本能的な願望を成就しているのだ。これは飽くまでも今の所では、私・ 草加の爺だけが抱懐している単なる私見にしか、過ぎません、はい、根拠薄弱なる、従いまして学問的な 裏打ちのなされた定説などとは類を異にしている。今の段階では、でありますよ。 しかしながら、でありますね、世の中には学者とか立派な学説の如くに通っていても、実に怪しげな 人物や迷説が数多くまかり通っている現実を知りますと、私の素人考えは少なくとも実害はありませんの で、取り敢えずで結構ですから、頭の隅にでも残しておいて参考にしていただけますなら、幸いと存じま す、実際に。 さて今度は同じ現象に対して、違う角度からのアプローチをしてみましょう。対象が何であれ一つの物 や事柄に注目が集まり、大勢の人々が一つの場所に集中して集まる。そして心を一つに通わせ合う。この 事自体に意味があると考えれば、心・精神面での「手当」・「手の平を翳す行為」と同等であると見做せ ないかということ。 古代から近世にかけての時代には、各地で神祭りの行事が盛んに、熱心に執り行われていた。現在でも やや形骸化したとは言っても、様々な形での祭りやフェスティバルが実施され、見物する客を含めて支持 者の数は相当なものだと思われます、確かに。この色々、様々に実施される祭りという行事が私たちに とって持っている意味とは、一体何なのかを考えてみる時に、人々の無垢な魂が自ずから会い寄る。人々 が生活上の必要から営む日常からの解放と、神を失ってしまった現代人が「無目的・無便宜」を敢えて 「神輿」として担いで、時には死者まで出して熱狂し、興奮する。その必要性が、その正当な理由が合理 的に追及され、研究された際に、妥当性のある回答は限られるでありましょう。限定される、必然的に。 それは一体何でありましょう? 私は次の如くに考えます。現代の個人主義は一種の迷妄にしか過ぎな いものだ。所詮は部分であり、断片にしか過ぎない個人は自己の抱えている「生まれながらの絶対的な孤独感」には、到底 最後までは耐えきれない存在である。どうしても全体との一体感を完全に体感して、自我の重みに疲れ 切った魂に「完全なる休息・慰安・安寧」を与えなければならない。三度の御飯以上に、生存には不可欠 な心の癒し。 それを呼び込む強烈な感動と忘我の瞬間。周囲の仲間との直接的でホットな肌の触れ合い、否、心と心、 生きた魂と魂、活力・エネルギーに満ちた満ちた生命の核心同士が熱く熱く結ばれ、相擁する体験が何が 何でも必要なのだ。求められなければならないのだ! 復活と再生の儀式が、祭祀が、是非とも要請され なければならない、何度でも、繰り返し…。 そしてその中心には、或いは最高の形式として、劇・ドラマがあることを、私たちは強く再認識しなけ ればならない。私たち自身の為に、そして人類全体の繁栄の為に! その大切極まりない神聖な儀式を取り仕切るに相応しい司祭たるべき理想の俳優・役者を、一人でも 多く生み出すべく、私たち一人一人が「修行し、鍛錬する」日々がどうしても必要不可欠なのでは、あり ますまいか、何よりも私たち自身の為に。そして、同胞や仲間や、子孫や未来の来るべき、愛すべき人々 を心底から歓迎し、歓喜して呼び込む準備としても。 うじゃじゃけて、ふしだらに生きるよりも、真剣に、目一杯に、瞬間瞬間に命を懸ける如き生命力の 消費の仕方の方を、私たち動物と呼ばれる生命体はより強く、無意識の裡に望んでいる。激しく、完全 燃焼するような鮮烈な生き方をこそ、待ち望んでいる存在なのだ、断然。 考えてもみて下さい、私たちが生きて在る全宇宙の時間から見たら、たかだか百年の寿命しか許されて いないのでありますよ、たかだか百年。だらだらとふやけた如くに生きても、宇宙時間からすれば一瞬に も満たない瞬時の一生なのでありますから、誰だって瞬間に命の華を美しく咲かせたいではありません か。劇的に、ドラマティックに生き行動したいのであります、それがフィクション・仮想現実の世界で あっても。感激を、生きて在る確かな実感と強烈な感動を、味わい尽くしたいのであります。その熾烈な 願望を、いつでも、どこででも、自由自在に叶えてくれる。そんな有難くも貴重な体験を劇・ドラマ・芝 居は手軽に、簡便に私たちに提供してくれるのですから、どうしてその理想を、考え得る最高の形を自ら の手で、自らの努力で構築しないでいてよいものでしょうか。 世の中は持ちつ、持たれつとは今回の試みのような事を言うのではないでしょうか。私は「野辺地の 町興し」という他人の為を言う前に、何よりも先ず自分自身の為になる。つまりは、自己の探し続けて来 た生きる目的を完遂するために全力を尽くす。そして町の方々は、御自分たち自身の為に、という前に 周辺地域や県の為に、奮励努力を開始するのだ、と。 支えたり、支えられたりは世の中の常。実にお互いさまなのでありましたよ、実際。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年06月27日 16時34分47秒
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