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第 三百九十九 回 目
「徒然草」に次ぎの一段がある。「因幡の國に、何の入道とかやいふ者の娘容美(かたちよ)し と聞きて、人數多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米(よね)の類を食はざり ければ、斯る異様(ことやふ)の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(四十段) 日本の近代批評を確立した偉人・小林秀雄は「徒然草は批評と観察との冒険ばかりだ。鈍刀を 使って彫られた名作揃い」と激賞し、上の文を引用した上で、「これは珍談ではない。徒然なる心 がどんなに澤山な事を感じ、どんなに澤山なことを言わずに我慢したか」と非常に鋭い切っ先を 読者に突き付けた。 私は私の流儀で作者の吉田兼好の言わずに我慢した所を敷衍してみようと思います。栗だけを食 して誰もが普通にしているご飯を食べなかった。為に親は娘に結婚を許さなかった。異様(ことや ふ)は平たく言って普通でない事ですから、娘に対して絶対の力を有する親は、娘の普通ではない 行為を理由に、普通にしている結婚を禁じた。つまり、要約すればそういう趣旨になる。 さてそこで、私はセリフ劇という劇を「異様」に確立しようとしている。しかも世間で常識と して通用している手段や手法を完全に無視して。常識を背景に何事もなく成立している筈の事柄を 常軌を逸脱したコンセプトや内容で置き換える計画のようだ。これには世間の権威者や強い影響力 を発揮する人々は、当然の如く強烈に反発する。何故なら、普通ではないことを普通の事の如く 実行しようと企図しているから。 ここで私は古典の一節を野辺地での町興しへ向けての自己の行動、セリフ劇の構築の謂わば 枕 に利用すれば足りる。確かに、そうには違いないわけなのですが、様々な人生の諸相を考察する 上で非常に参考になると思われますので、暫らくは兼好法師と共に学びを実行してみたい。その様 に思います。急がば廻れと言う諺もあることですから。 因みに、この諺の解説から述べておきましょうか。何事かをしなければならないと、心が急いて いる。早く、一刻でも早く、一足でも早く目的地に到着しなくてはと、今心が逸りに逸り、焦りに 焦っている。そういう場合に人はとかく、早道と思われる道を無理やり、遮二無二突き進もうと考 える。そしてその考えに急かされて行動を起こしてしまう。だから却って近道と当初思えた道が とんでもない遠回りになり、遠回りと思えていた道が一番の近道だったと、知れる。この平凡な 事実が私達の生活では意外なほど多く起こっている。 扨てそこで、又徒然草の文章に戻ります。栗と米の比喩は天才とか非凡、更にはアウトサイダー と常識人との対比と捉えることが可能ですよ。異常、異端と通常と言い換えてもよい。ですから当 然にこのテーマから様々な論評が可能であり、本が何冊でも書ける。しかし冒頭にもお断りしたよ うに、ここでは単に劇を語るための切っ掛けを作りたいだけでありましたから、あまり深入りはし ないでおきます。 それでも、人に依っては余りに拡大解釈が過ぎるのではないかとの、意見が出て来る可能性が 多いにあるかも知れませんね。私としてはそうした声をむしろ期待していた、正直のところ。 そうなのです、拡大解釈や誤解はむしろ積極的にするべきもの。特に芸術作品にあっては。誤 鑑賞や見当違いの受容は大歓迎しなくてはいけない。古典や傑作が本当の意味で完成し、創造が 十分に完了するのは、そいう受容者の側の創造的な参画がなされた瞬間、まさにその刹那、刹那に 於いてなのだから。詩や散文が現に生きている証しは、その拡大解釈や新鮮な読みが加わるからで あり、誤読を誘っているのが傑作の傑作たる所以だと、主張しても過言ではないのですよ。 劇もまた同様の特色を顕著に持っている。ゲスト各人の好意的な「誤った見方」こそ劇の内容を 益々豊富にし、味わい深いものとする。傑作は、観巧者の心の中でその瞬間瞬間に新たに生まれ出 る、完結する。それを可能にし、促す役割を舞台上の俳優達は担っている。 しかしながら、世の中の在り方として誤解や間違ったスタンダードが、幅を利かすようになつて は困りますよ。世の中全体としては非常識が常識を圧倒するような事になっては、どの様な観点か らも許されてはならない。大原則としてはそうに間違いはない、当然です。 が世の中全体が著しくあらぬ方向にねじ曲がって、異常を来たしてしまったなら、歴史を概観す るとそういう偏向が皆無ではない。全体の中の一部分を取り上げて考察すると、偏向や偏りが通常 ではない現象はかなり頻繁に継起している。少なくとも後世から眺めた景色が普通ではないと、判 断される部分的な「異常現象」が見られる場合が厳存する。普通と異常が逆転しているのに、誰も その事実を「異常」だと感じなくなってしまった。 そうした著しい逸脱状態を正常な状態に戻す行為や努力は、並々ではあり得ませんね。それどこ ろか不可能に近い困難さを伴う。少なくとも途轍もない困難さが容易に予想される。 奥歯にものの挟まったような物の言い方に聞こえるでしょうか。ハッキリと申上げたい。劇と私 達の健全な関係が非常な異常を来たして久しい。為に、私達の健康な生活が大きく阻害されてい る。人間を愛し、劇を愛好する者の一人として座視するに堪えない。 ここで、劇とは何か? そして演戯とは何か? という本質的な命題について御一緒に理解を深 めてみたいと思います。どうかお付合い下さい。 私達、人間と言う物はただ生きて呼吸しているだけの存在ではありません。自分に与えられた生 命・命をエンジョイしたいと願っている、非常に「慾の深い」生物であります。それを象徴的に 語っているのが、私達と芸術一般との関係であります。 人間は何故に絵を描くのか、どういう理由で音楽を愛好するのか。理由は簡単明瞭です。それが 無性に楽しいからであります。純粋に生きることを楽しみたい、心の底からエンジョイしたいから なのでありますね。ただ闇雲に生きるだけでは飽き足らずに、生を、生命エネルギーを直視ながら 遊び、楽しもうとする。そうした生命体でありますよ。 ですから芸術の本質部分にはそうした「遊戯」への強い、強い願望・衝動が隠されて有る。確か にそう言える。更にもっと言えば、とても人間的と思える欲望なのですが、その様に生きている自 分達の姿を「眼前に据えて」意識的に演じ戯れようとさえする。それが演戯することの意味です。 つまり、人間は本来的に「劇的な存在」なのでありました、実に。 更に、更に、もっと言えば人生そのものが「舞台」であり、私達一人一人は名優揃いの俳優なの だ、実に驚くべき発見でありますが、そうも言える。いや、そう言った方が正しいでしょう。 但し、現実の名優達は、自分が俳優であるとも、ましてや名優であるなどとは夢にも思わない、 自覚が欠如しているだけにしか過ぎない。 そこで、そもそも私・草加の爺はこのような「牽強付会」の説を、何故敢えて持ち出したのか、 という事ですが、現在ただ今の情勢では自分で自らを解説するより手がないので、自己解説致しま す。 今、人生という晴れの現実舞台が「荒れに荒れ、すさびにすさんでいる」からであります。人類 全体の在り方がとても「健全」であると思えないような、一種の惨状を呈している。これに対処 するには根本からの「手当」が、本質からの治療・療治法が必要だと感じられた。 それには劇しかない、もっとも人間的で、平和的で、友好的で、協調を旨とする劇を正すに如く はない。劇を正道に戻すことで、人類の異常状態を匡す糸口・端緒としたい、最低でも。その様 に愚考致した次第であります。 此処で諄いようですが、念を押しておきたいことがありますよ。それは此処に書き連ねている文 章の意味合いに就いてでありますが、これは飽くまでも自分自身を納得させる為にしていることで で、その外のことは少なくとも私の眼中には御座いません。他人様を説得する芸当など、私の柄で はないし、た易く説得される他者もいらっしゃらないと、心得ても居りますので。 ですから、長男の貴信から忠告を受けた事柄、「神とか啓示とか、絶対者」などという誤解を主 じ易い表現は極力避けた方が、賢明だと言う趣旨のアドバイスも、その意図する好意だけを受け止 めて正当に理解した上で、尚且つ無視する、採用しない。その理由は自己説得、乃至は、自身での 納得が、それだけが目的だからなのです。 以前の私なら、そうした表現を誰か他の人が用いたならば、先ず「胡散臭い」と感じ、悪意は仮 にないにしてもこちらを煙に巻くような、気色の悪い印象を持ったに相違ないからです。と言うこ とは、今は、家内と出会った経験を有する現在は、様々な「有意義な教育的な影響」を受けて来た 当然の帰結として、そうした表現以外には適当な言葉が見つからない。従って、そうした表現を 使うのがもっともぴったりと来る、わけなのですね、真実の所で。 またまた、全体が非常識一色に染まった際に、常識は「一見して非常識」に見えても仕方がな い。そう強く思うのですね。確信する、と言い換えてもよい。 私の野辺地への働き掛けの本意を一言で表現すれば、楽しい劇・演劇へのインビテーション・誘 い・勧誘という事になるわけです。 楽しい事をして、元気を体内に蓄えて、そのエレルギーを傾注して楽しく面白いお芝居を興行し て、皆してお祭り騒ぎをして大いに盛り上がり、よその人達も巻き込んで楽しみましょうよ。そう しているうちに自然に大きな人の交流が生れ、楽しみの輪が増々広がる。町も発展するのは当然な ら、祭りの評判を聞いてやって来る外国人も時間と共に増大する一方…。 そんな上手い話が、そんな信じ難い美味しい事が、一寸した心掛け次第で可能なのだ。可能どこ ろかこれ程に確かな成り行きも珍しい。誰が仕組んだのかは、分かりませんが、或る確かな気づき が有った事だけは間違いない。 ここでもう一度、コロンブスの卵の譬えを、その意味深長な含蓄ある内容を篤とご検討あれ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年02月07日 01時53分18秒
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