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草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年04月17日
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第 四百二十七 回 目

 プロとアマチュアの違いに就いて、セリフ劇との関連で書いてみます。

 生まれた儘の人間が、いつの間にかプロフェッショナルとアマとに分かれる訳ではありませんか

ら、人間には本来プロもアマも、その区別はない、筈であります。所が現実にはプロと呼ばれ、ア

マと称される一群の人々が存在する、確かに。

 辞書的な意味では職業として事を行うのがプロであり、そうでないのがアマとなります。ですか

ら普通に使う場合には職業人として演技を行うか否かであって、価値基準は本質的には無かったの

ですが、プロはアマよりも遥かに上手であると言う、先入観念が抜き難く出来てしまっている。

 ところが、所がであります、私に言わせれば現実には演技の本質から見て、上手も下手もいな

い。おしなべて「下手」であり、むしろ「ド下手」と形容すべき代物が、プロと呼ばれているが

故にあたかも上手乃至は巧者として通用している。これが現状であり、現実の状況です。

 私の話はどうしても世の常識に反しているが故に、とかく誤解を招き易い。今では、誤解を恐れ

ていては私の目指す目的が遠のいてしまうので、敢えて誤解を恐れずに直言する事にしている。

 プロで名人上手と称され、スター扱いされている有名人達は例外なく、ごく普通の常識的な

レベルの俳優であり、表現者であります。それでは何故彼や彼女は名人と褒め称えられる存在に

登り詰めたか。それは、彼等の演技が所謂銭が取れるから、見世物として、舞台に立ち、或いは

映像化された際に見栄えがしたり、姿形、声などがよく、素材として人気を博するのに適していた

からにしか、過ぎません。虚像としてのスターの座に好都合だった。それだけの理由です。

 本当の俳優とは、名優とはそこから先に期待される可能性として、感じられ、待望されるだけで

す。やっと俳優としてのスタート地点に立ったに過ぎない。

 諄いようですが、セリフ劇の俳優には上手下手、巧拙、その他容易に人気を博し、銭が稼げるか

否かの素質は全く不問に付される。

 唯一つだけ問題にされるのは、一人の人間として本物であるかどうか、という点だけですよ。そ

れはセリフ劇の場・空間ではゲストのカタルシスを進んで促進しようとする、純粋な善意・ホスピ

タリティだけが物を言うからなのであります。

 従来の所謂俳優と、セリフ劇の俳優とでは同じ言葉を使っても、まるで判断基準が相違してい

る。だから、セリフ劇の俳優は素人に始まって、終生素人精神を貫き通すことが、一番大切な

要素となる。人間として本物かどうかが問われるとは、そうした意味合いでありますよ。

 人間であることにプロもアマも無いように、セリフ劇では 素人の真心を籠める優しさだけが

大切な要素となり、その他の要素は謂わば枝葉末節なのですからね。

 そして、台本のセリフに真心を籠めるのは、表面的なテクニックではなく、テクニックを超越

した善意であり、暖かなハートの自然な発露なのですよ、実際。

 しかもそれが確かにしっかりとゲスト側に伝わったかどうかは、心の温かさが直に感じられ、皮

膚感覚で確認できるそうした距離感だけなのでありまして、そうした俳優としての鋭敏で繊細な

感覚を練磨するには、日頃の一個の人間としての弛まぬ精進と修練とが、在るだけのです。

 たとえばのお話を致します。何度も書きましたので少々気が引けるのですが、学習塾でのことで

す。授業の合間などの雑談で女子生徒に対して何度か、お化粧の話をしたことがありました。君の

内面を磨いて、最も効果的な、そして永久的で完璧な魅力を身に備えなさい、と。

 私は何も化粧品メーカーに恨みや敵意を持っているわけではありません。勉強に積極的で、強い

目的意識を持てないでいる生徒に、年頃の女の子なら当然に関心を抱いている筈の話題を持ち出し

て、君の嫌いな「勉強」でさえ、気持ちの持ち方次第では、モチベーションを高めることが出来る

事を、強調したかっただけなので、その外には全く他意はありませんでした。

 相手の女子生徒は幸い、例外なく好意的に私の話を受け止めてくれました。と、言うよりは、

そういう生徒を選んで、そういうタイミングを見計らって、そういう話題を振ったわけですね。

 ここで、こう書いて来て私は人類の偉大なる教師であるソクラテスの教育スタイルを、自然に

思い出しています。

 どういう事かと申しますと、書き言葉と話し言葉との違いに就いてであります。

 書かれた言葉とは、現代では大部分が印刷されたものを、意味します。印刷された文章は視覚的

には白い地に付けられた黒い染みでしかありません。その染みを誰かが文字と認識して、それを

自分の声として発声した時に初めて、書き文字は再び、三度人間の言葉として再生する。

 長い記録と保存に便利な文字は、誰に対しても同じ表情を見せ続けるだけです。これに対して話

言葉の方は臨機応変に、相手により、場合によって表情を変え、様々なニュアンスを自在に付け加

えることが出来る。現にそうしている。

こうした話し言葉の長所・利点を遺憾なく発揮するのが、私達のセリフ劇なのであります。

 マンツーマンの場合にはその特定の個人に合わせて、二人以上では所謂集団的自我のレベルに合

わせてそのグループに最も相応しい対応をする。つまり、共通のカタルシス・浄化を考慮して台本

を選択し、言葉を使用する。

 再び、こうしたスタイルこそソクラテス直伝であり、セリフ劇はそれを正当に継承し、教育の

場だけでなくあらゆる人々との有意義なコミュニケーションに役立てる、そういうオールマイティ

で非常に人間的な営みと言えるものなのであります。

 古代ギリシャの偉人にして哲人のソクラテスは毎日外に出て行っては、有能な若者を相手に問答

、つまり話し言葉を通して直接に若者の柔軟な魂にダイレクトに、己の信ずる正しい教育を施した

と伝えられている。注目して頂きたいのは「硬直して、自由の効かない」書物によってではなかっ

た事実でありますね。ソクラテスの魂の言葉、肉声を通して、当面の相手である若者の魂に確実に

伝わる事柄をです。

 もう一つ注目して頂きたいのは、ソクラテスと若者との関係であります。教師と生徒という上下

関係ではありませんで、一人の人間同士の自由な人間関係の中でこの「授業」が実施された、とい

う紛れもない事実であります、はい。

 一方が片方を説得するという当時流行していた弁論術ではなく、ソクラテスが創始した独特の

問答形式によるもので、これはセリフ劇にそのまま受け継がれる善意対善意の自由な交流そのも

の。しかも、セリフ劇では専らストレスだけを問題にし着目しますので、目的や目標は極めて

明確になっていて的を外すことは全くありません。

 茲で或いは唐突と思われる事を提起したい。実存と言う事ですが、我々にとっての在りの儘の

存在を言うのですが、そう言われても何の事かさっぱり分からない、そう思われる方が大部分だと

考えられますが、取り敢えず当人が生きていてどの様に感じているか、その実感と思って戴けませ

んでしょうか。

 私は、実例として例示すれば、ごく幼少時には毎日が楽しくて堪らないと感じ、次には親の干渉

や学校に通う強制を迷惑で嫌な事と思い、次には生きているのが非常に辛く苦しいと受け止め、と

言った具合に、同じこの世にあってもその年齢の在り方、意識の持ち方で様々でありました。そし

て現在では幾多の変遷を経て、非常に充実した生活と感じて、大変に有難いと思いながら毎日を

送っている。

 しかし、私のこの世での在り方で根柢の所でずっと続き、共通している客観的な真実がある。そ

れは人間である限りは誰でも免れることが許されない、絶対的な孤独であり、又そこから来る孤独

感情でありましょう。

 結論を先に言ってしまいます。本当はこの「絶対的な孤独」は間違いであって、本来は溢れるよ

うな愛情・慈愛によって包まれているので、それへの気付きが欠如しているだけなのですが。

 しかし、通常は私達の実存としては絶対的な孤独の中にある。そしてこの孤独の故に私達は本質

的に満たされない思いに、生涯にわたり駆られ続ける。これがストレスの生まれて来て止まない

本当の原因であり、同時にこの孤独感によって連帯感も生まれる。仲間であるとの意識・紐帯を感

じる。同じ生命、生、命の中に現在ただ今生かされてある者としての共通の感覚を実感する。

 全てが此処に始まり、そして此処に終わる。そう言える。

 円・サークルを思い描いてみて下さい。点のように小さなそれから、無限大に大きなそれへと。

皆が同じ丸でありますから、形状は全く同じですね。合同ではないけれども、相似形なのです。だ

から同類として互いを正しく理解し、心を通わし合う事が可能なのだ。

 私は「源氏物語」の現代語訳を既に十年以上の長きにわたって、鋭意継続中でありますが、平安

時代の人々と間もなく令和という新しい年号で呼ばれる時代を迎える現代では、人々の意識は著し

く相違してしまっている、同じ日本人とは言えない程に。しかし、上に述べた円の比喩を使えば容

易に理解出来る如く、理解は可能なのです。共通項が丸であり、孤独感を、飢餓感を胸に抱え込ん

でいる存在であるが故に。

 本質的な人間理解のポイントさえ外さない限りは。余計な価値観や、偏見や、色眼鏡を外して

素直に、なだらかに対象を直視する事を行うならば、誰にでも、何処ででも実現出来る事なので

あります故。もともと、造作もない、極めて単純な事柄に類すること。

 今回のテーマであるプロとアマの違いについて言えば、どちらが良い悪いの問題ではなく、目的

意識が異なる。プロは言うまでもなく喰う為に働くのに対して、アマは愉しむ目的の為に楽しむ。

そういう違いであります。

 食うために生業として俳優をする。他者の為に楽しみを与えるプレイとして、俳優役を演じてみ

せる。どちらが偉いとも、どちらが低級だとも私は申し上げるつもりは、金輪際ありませんよ、本

心で。ただ、ストレスを解消しカタルシス効果をもたらすのは、圧倒的にアマチュア精神を失わな

い俳優であることを、指摘するだけに留める者でありまして、後は皆様方のご判断に委ねたいと正

直考えて居るのです。





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最終更新日  2019年04月17日 13時19分33秒
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