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人生とは「忍苦」だ。つまり、初めに与えられたものしか、与えられず、しかも、それ以上が与えられる
かの如き錯覚に、生甲斐を与えられている故に…。 これは、私の言葉ではない。しかし、真実であると思う。無論、様々な反論も可能であるし、現に様々 な人生に対する立論がなされてもいる。 カラスとして生まれた者は、遂に孔雀にはなれない。と、言うような具合に文脈は続くわけだが、する と、最初に与えられたものとは、カラスとしての素性と言うことになって、その限りでは生物学的に正し いことは自明であるかも知れない。しかし、何故にカラスがカラスであっていけないのか? 孔雀になれ ないことを悔やむから。孔雀の美しさに引け目を感じ、自分の出自に絶望を感じるから。 しかしながら、人生は忍苦である、という命題と、カラスは孔雀にはなれないと言う表現とには、明確 な乖離が存在する。つまり、別々の局面を提示しているに過ぎないだろう。 忍苦という人生の実相と、カラスと孔雀とは生まれながらに相違している事実との間には、何ら関係は ないのであるから。 無理にこじつければ、カラスに生まれついた者が、無謀にも孔雀の美に羨望を感じて、そして絶望する 際に、忍苦は途轍もなく巨大なものと感じられるに相違ない。だから、そんなアホらしく詰まらない望み は潔く捨ててしまうに越したことはない。身の程知らずの大望を抱く事の無意味なことを悟ればよい。 私の場合を言えば、自分がカラスか孔雀かと自問自答すれば、カラスであろうと躊躇なく答えるであろ う。なろうことなら、孔雀に生まれれついて、他人に自己の美しさを誇ってみたいと願わないわけでも ないが、私には元来、孔雀に生まれたかったという強い欲求が不足している。 カラスで結構、孔雀の美しさを目にすれば、当然ながら素晴らしいと感じる。同時に、カラスで何故 いけないのだと、強く抗議したい感情もある。 それに、この年齢まで生きて来ると、孔雀にもカラスにはない悩みや、もっと美しさや才能に恵まれた 他者に対する劣等感や、嫉妬心があることを知っている。 誰にとっても、人生を生きるとは苦しみに耐え忍ぶ事と、熟知しているから、余計なことは考えないで 済んでいる、有難い事に。神や仏は万人に対して平等である。人間の自由平等とは、神・仏などの絶対者 の眼を得て、始めて首肯出来る事柄なのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年07月13日 08時25分59秒
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