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旧約聖書を読み進み、出エジプト記を読了した。
モーゼに語りかける神は、自らを嫉妬深い神と言う。そして、非常に人間臭い要求を次々にモーゼを通 じてユダヤ人に要求する。まるで、強権を行使しようする人間の王者さながらの如く、私などには感じら れてしまう。 これはどうしたことか? 唯一絶対なる神が唯一つ存在するとして、その絶対者が人間に語り掛ける時 には、どうしても歴史的な、或いは地政学的な制約を受けた、ある特定な人間を選択して声掛けしなけれ ばならない。ここに人間化される必然性が生まれる。ここに人間の側の都合によるバイアスが持ち込まれ る原因があるのであろう。謂わば神の側の妥協の産物として。 だから、神は人間化をしない限りは、人間に理解されることはないわけである。神殿を飾り立てる、神 殿を宰領する神官を立派に飾り立てる。捧げ物を吟味する。皆、人間が神の心を忖度するところから発し ているのであって、人間臭さが充満してしまう結果を将来してしまう、好むと好まざるとに拘らず。 だから、一般論として言えば、人間の数だけのバイアスが介在してしまう、神と私たちとの間の対話に おいては。 同様の事が、この拙文、私の自分自身との対話は、どんなにもがいてもあがいても、自己を通じての「 私の神」の追求に帰結してしまう。つまり、私は私の肉体や精神を媒介にして、神を探るより仕方がない わけだ。できるだけ客観性や公正さを得たいと思って、バイブルを材料にしているわけであるが、それで も、他者という人間集団の歴史的に作り上げた 神の像 を、そこに見ることになっている。つまりは、 人間理解の大きな助けにはなっても、神に直接接近する道ではないのである。 昨日、長男に電話で誘われて浅草でお酒を飲むことになった。序で、と言ってはまことに失礼な話に なってしまうが、観音様に手を合わせて祈り、善男善女の一人として行動した。 お前は本心で浅草の観世音菩薩の御利益を信じているのか、と問われたら、半分信じ、後の半分は信じ ていないと答えるだろう。私の積りでは、自分自身と無心に向き合う、ちょっとしたチャンスとしている のだが、ほんの瞬間的な清涼剤の役割を与えて貰っている。そんな程度である。お賽銭は昔から五十円と 決めている。心の中で唱える祈りの言葉は、本当は内緒にしておくのが良いのだろうが、もったいぶって も仕方がないので、吐露してしまうが、「よろしく御導き下さい、有難う御座います」と、お賽銭の高に 見合った内容なのだ、と自分では思っている。 それと、誰に向けて発したら良いのか、感謝の気持ちを素直に表明するには、浅草観音しか無いという のが、掛け値なしの本音でもあるから。 偶像崇拝は無意味だと言う。しかし、この世に在るもので無意味なものなどあるだろうか。要は、それ と対する人間の在り方こそが、問題なのではないだろうか。問題があるとすれば、それは常に決まって人 間の側にあるのであろう。 心は形を求め、形は心を勧める。私を含めて人間とは実に弱いものである。頼りない存在である。窮す れば藁をも掴むであろう。それを笑うのは自由だ。しかし、今笑っている者が、次の瞬間には藁を掴む者 に転じないと、誰が言えようか。 肉体も脆弱で儚ければ、精神に至ってはもっと、もっと頼りなく、力弱い。不動心などと、偉そうな言 葉を口にするのはよいが、その通りに行ったためしは無いのではなかろうか。理屈ではなく、岩でさえ不 動では居られないのだから、人間に不動心が根付くことは金輪際あるまい。 しかし、不動心を求める気持ちが芽生えるのも、極めて自然だし、それ故に人間的だ。 この脆弱極まりない人間存在を肯定することなく、神を云々する資格はないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年12月10日 10時45分26秒
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