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今回は久しぶりに孔子の教えである「論語」を取り上げてみます。
孔子は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。BC 551―479、釈迦、キリスト、ソクラテスと並んで世 界の四聖人と讃えられる偉人である。 孔子が生きた時代は、周王朝が有名無実化し、権力は臣下に移り、政治の道も、人間の礼も乱れ、社会 は無秩序化してしまいました。 その中での孔子の主張の中心は、忠 = まごころ に基づく人間愛としての 仁 の強調である。親へ の孝行や年長者への悌順(親しくして、従うこと)、そして利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなど を述べている。 それでは「仁」とは一体何か? 他者の心を思い遣る事に尽きる言葉です。すると、四聖人は共にこの 仁の徳を最大限に発揮した偉大なる人物と言うことになりますね。 所で、他者、自分ならざる者への思い遣りは、如何にしたら可能となるか。学びであります。白紙状態 で生まれでた個人は、自己の欲求だけしか持ちません。古典を学ぶ事を中心にして、先人達の仁義(慈し みの心と正しい行い)の在りどころを具(つぶさ)に知る。これ以外にはありません。 また、赤子としての自分の最も身近にいて、母乳だけではなく、様々な生きる源の力を与え続けてくれ る母親を始め、父、兄、姉達に始まるこの世の先輩諸氏から、自ずから体得する学びが根本でありましょ うか。 勿論、例外も多く見られますが、基本的には母親を始めとしてこの世の先輩たちは、献身的に赤子に対 してくれるものでありますから、他者の心を正しく思い遣る仁の基礎は、幼時に体得していると考えてよ いでしょう。後は、その仁の芽を損なわないように真っ直ぐに育てていけば、誰でも容易に極めて人間ら しい人間に自然に育ち上がるもの。理屈では、いとも簡単に好結果が得られる道理なのですが、現実は皆 さんがよく御存知の通りに、理想とは程遠い現実が出(しゅっ)たいしている。 ですから、学びは一生涯にわたって絶えず継続されなければならないわけであります。つまりは、学び に完成はないのであります。ですから人は、この世に学びを実践するために生まれて来たのだと、言えな くもない。ここで言う学び、学習とは学校や教場で行われるものばかりとは限りませんで、日常生活のあ らゆる局面で、その人の心構えさえしっかりとしていれば、必然的に「教え」と「学び」とはセットにな って行われているものなのであります。 私の体験から申しますと、教えの達人とは、それ以前に、学びの達人であった。また、教える、教育す るとは「より深く、詳細に学ぶ」ことを必然的に意味します。学びの達人こそは、教えの達人へと極めて 自然に移行する。 「学びて、時にこれを習う」のは非常に楽しいと孔子は述懐する。習う、お浚いを完成させるのにも人 に教える行為が最高のものであります。ですから、孔子は弟子三千人に教えて倦まなかった。学習の理想 の姿を実践した、達人の姿が偲ばれるのが名著「論語」であります。俗に論語読みの論語知らずと、エセ 学者を嘲弄するのですが、偉そうな外見だけに威圧されて、人間の何たるかを知らない、知識人にありが ちな権威主義の権化の如きインテリを戒める言葉として、心に留めておきたいものです。 所で、私の事を、またぞろお話致しましょう。私は小学校から、大学まで、まあまあ優秀な成績で通す ことが出来、中学の時の恩師からは「イマイチ」と判定されはしましたが、私なりには一応「出世コー ス」を辿り、業界でのエリート街道をひた走った。そんな風に解釈して、満足しています。 私の凄い所は、( こんな表現を、自分のことに対して使うのは、馬鹿げていると思われるでしょう が、他に適当な言葉が見つからず、実際にそう感じているのですから、遠慮なく使用致しますよ )、私 の 凄い ところは、実社会に出てから、本当の学習を絶え間なく継続し、優秀な成績を収めた事であり ましょう。社会に出て、一定の収入とポストを得てしまえば、学びなど必要ではないのだ。そんな風な顔 をして済ましているのが、普通の社会人でありますが、私は学びの達人であります故に、所謂学業生活を 終えた地点から、本当の学習生活がスタートすると心得ていたのでありました。 私は様々なタイプの人々と出会い、色々な恩義に預かっております。勿論、思い出しただけでも反吐 (へど)が出てしまう様な実に嫌な奴とも一時期顔を突き合わせなくてはならない憂き目にも合いました が、概して人間関係では恵まれていたと、感謝の思いで一杯であります。 それは私が、孔子様の言葉を借りれば、仁の精神を以て他者と接したからにほかならない。そう思って います。キリスト流に言えば、まず与えよ、さらば汝にも、与えられるであろう、の精神を、巧まずして 実践した賜物なのですね。 今の私は非常なオプチュニスト、人生肯定論者、人性性善説支持者、女性崇拝者、などなど、人間を百 パーセント無条件に肯定し、賛美する者でありますが、若年の頃には全く正反対の暗い人生観、絶望的な 人間観を抱いて希望のない毎日を送迎しておりました。 私を根本から変えた 観世音菩薩 に例えるべき女性・悦子の出現が、私を生まれ変わらせた。と、言 うよりも本来の私に立ち戻らせてくれた。そう言うべきでありましょう。 つまり、私の家族がまず以て素晴らしかった。母親が美人で、賢夫人で、貧乏所帯を切り盛りしなが ら、中々の料理上手で、子供をこよなく愛して、何よりも夫を愛し抜き、どこまでも良い母親でした。父 親もまあ素晴らしい男性でした。兄も妹も、姉も、皆が素晴らしかった。類は友を呼ぶとか、縁あって結 ばれた伴侶達も皆素敵だし、従って類縁もまた、最高の人々と言えましょうか。 もうひとり、能村庸一氏がいましたよ。氏は巧まずして人生をエンジョイし尽くした、塚原卜伝の如き 人生上裡の英雄豪傑とも称すべき、ものすごいお方でした。その様なお方に愛され、認められ、友情を終 生にわたって育む事を許されたのは、私の誇りとするところであります。 私が誰彼の区別を設けずに、私の真心・仁を以て一心に接し続けたからこそ、様々な素敵な人々と出会 うことが出来たのだと思っています。人との出会いとは、結局相互の心の響き合いが叶ったか否かにある ので、ただ物理的に顔を合せ、ある一定期間同様な行動を共にしただけを意味しません。つまり、つまり は知識として、かく生きるべきと承知をしていても、それが即行動として実行されなければ、知識は、或 いは行動の原理は生きた意味を発揮しないわけであります。 私は、学んだことを実践しようと心掛けてはいましたが、それが功を奏して素晴らしい邂逅を生み出し たのではありません。何時も決まって「予期せざる」何物かが作用して、私の為になる何物かを産んでい た。 作家の長坂秀佳氏との付き合いもそうした一つでありました。長坂さんとは T B S の映画部のプロデ ューサーの橋本洋二氏から御紹介を受けて、新番組の企画書作りから急激に親しい関係に入りました。 長坂さんは非常に独特の個性の持ち主で、映画の世界に憧れて、工業高校卒業後に東宝撮影所に小道具 係として採用され、その後も苦労して同じ東宝(株)のテレビ部へと転身し、更にフリーの脚本家になっ た。そしてその後めきめきと脚本家としての頭角を現して、相当の流行作家へとのし上がるわけですが、 長坂さんが脚本家としてスタートを切ったばかりの頃に私は知人・友人兼、仕事仲間になったので、大変 公私共にお世話になりました。 こういうエピソードがあります。長坂さんのお宅に伺った際に、たまたま彼の御母堂に御目にかかる機 会があった。私はごく普通に御挨拶したのですが、後で聞くと「あのお方は、皇室の出ではありません か」と息子に訊いたと言う。「秀佳の友人で、あんなに上品なお方は他にいないからね」と付け加えたと か。そう言えば、長坂さんは腕白小僧がそのままで大人になったような感がありました。業界でも各局の 担当者と直ぐに口論を始めたり、中には暴力沙汰を実際に演じたりと、とても紳士的とは言えない振舞が 目立つお方でしたよ。それが、どうしたわけか、皇室出の御坊ちゃまと非常に馬が合った。私と彼は喧嘩 一つしない仲良しの仕事パートナーとして終始したのです。 序ですから申し上げますと、私は東京下町の「最後のガキ大将」を自称する、大人から見ると 手の付 けられない 悪ガキ でした。と見たのは、大人たちの偏見でして、私の周りでは暴力は愚か、喧嘩一つ 起こらなかった。つまり、私という存在が子供達のグループにあるだけで、平和が保たれ、男女の諍いも 、弱い者虐めも発生しなかった。これが本当の餓鬼大将の名に恥じない、ボスの役割だった。 どうです、皇室出は実は下町の餓鬼大将の成れの果てだった。実は、長坂氏と私とは地方出と東京育ち との違いこそあれ、周囲を無言で仕切るボス精神の塊のような人間だったからこそ、あんなにも馬が合っ たのでありましょう。私達二人を称して「美女と野獣」または、「弁慶と牛若丸」と陰口した不届きな輩 も居たとか、居なかったとか。此処でも暗に、同性愛者を暗示する符牒で二人の仲を中傷する意図が見え ますが、フジの能村氏との交際でも、一寸見に不釣り合いな仲を、あたかも合理化するように、陰口が登 場するわけであります。つまりは、私は非常に目立った存在だったが、一見すると敏腕プロデューサーに は見えず、ちょこまかと業界をはしっこく動き回る、小才の利く小ネズミ的曲者としか評価したくない、 負け犬のような連中が大勢いた。それが実相だったのです。何と嫌な、スケールの小さな小社会ではあり ませんか。 長坂秀佳の話をしたので、もう一人世間的には評価の高かった市川森一についても最後に触れておきま しょう。私は「仁」を語る時に、それから最も遠い地点で生きた人間の一人として、彼・市川を思い出さ ずにはいられない。勿論、彼の人間としてよい所も人一倍よく知っている私です。 私は彼を脚本家と呼ぶよりは、希代のペテン師と呼びたい。私のような生真面目で、人を疑うと言う事 を知らない純情青年を、悪辣至極なやり口で裏切った。その悔しさ、無念さは、言葉では表現できない。 今は幽冥境を異にしている故人を鞭打つような言葉の制裁は、本当の所、振るいたくはないのですが、天 国ではせめて天使たちを相手に、ペテンを働かないで、本来の真人間に立ち戻って呉れることを、切に願 っている、嘗ての親友の言葉として、受け止めてくれたまえ。私は、このきつい言葉を、私の仁精神から 発しているのであって、私憤を晴らそうためなどでは断じてない。少なくとも今の君は、私の真心を素 直に受け取って呉れなくてはいけないよ。市川森一の霊に合掌! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月01日 09時00分17秒
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