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「これからこの近所で、人と会うのだが、よかったら一緒に来ませんか。なに、相手はうちの局の人間
で、酒でも飲みながら駄弁ろうというだけですから、気を使う心配はないのです」 一寸、電話を掛けに席を立った松村氏が戻って来た時に、俺に言った。 松村氏に連れられて行ったスナック風の小さなクラブで俺は、松村氏と同じ局に勤める横川に紹介され た。 横川は長身で、端正な顔立ちの青年で、俺と同年輩ぐらいに見えたが、後で聞くと俺と同じ大学の出で で、二年後輩と言う事だった。勿論、二人が顔を合わせるのは、その時が初めてであった。横川は初対面 の俺にも気取りがなく、気さくに語り掛けて来た。 「僕は、松村さんの人柄と才能に敬服してまして、まあ年齢は十一歳も離れているのですが、まるで実 の兄さんのように慕っているのです。僕には本当の兄が一人いるのですが、その兄とは全く気が合わず、 赤の他人も同然の関係なのです。全く不思議ですね、人と人との関係と言うものは……。松村さんに対す る僕の感情は、殆ど恋愛感情に近いものなんですよ。松村さん程のいい人を、僕は知りませんね。あなた も本当に良い人と知り合いになりました」、「おい、おい、もうそれくらいにしてくれよ。確かに、ここ の払いは私が持つから――」、松村氏が笑いながら言った。 「ほらね、僕が言ったとおりでしょ、ハッ、ハッ、ハハ」 俺もつられて笑った。横川の語調は穏やかで、態度にはまるで嫌味がなく、自然だった。育ちが良いと いうのは横川のような人間を言うのであろうと、俺は感じた。俺が同性に自然に好感を抱くのと、珍しい 現象であった。 松村氏と横川の間柄は、会社の仲の良い先輩と後輩という域を遥かに超えていた。二人は年齢とか社会 的な立場、職業的な地位などの枠を飛び越えて、もっと人間的に結びついていた。このふたりの間には、 普通の意味の利害関係は介在しない。唯単に、一個の友人として、対等な同志として付き合っているのだ った。大袈裟に言えば、今の日本には有り得べからざる人間関係だと言えた。少なくとも俺が知っている 限りでは。 ふたりの人間関係に対する俺の驚きには、異なった要素が混じり合ってもいた。一つは、その様な人間 関係の在り方に対する、素直な羨望の念と、もう一つはその様な人間関係を支えている、松村氏と横川の 間のバカバカしいまでの楽天性やお人好しさ加減に向けた、激しい侮蔑の感情とである。 しかも、その二つの全く相反する感情が共に強烈であったので、そのトータルな作用として、全く俺は 二人に対して激しい嫉妬の念を禁じ得なかった。 そう、何時、いかなる場合でも俺は松村氏や横川程に、徹底したお人好しにはなれない。松村氏や横川 達だとて何時でも、また誰に対してもあれ程に手放しでお人好しであるわけではあるまいが。この自信家 を誇って来た俺が、他人の行動や人間関係を常に上から見下ろし、皮肉で批判的なポーズをとり続けてい るこの俺が、松村氏と横川に鮮烈な引け目と劣等感を味わわされたのである。 俺は松村氏との仕事を立派にやってのけた。今回、松村氏が新たに手がけた時間帯、水曜日夜九時台の 六十分枠の娯楽アクションドラマ「炎の男」の三分の一以上は俺の脚本が採用された。そして、土曜日の 夜八時台のホームドラマ「ハッスル一家」は、ここ二年間常時高視聴率を保ち続けて、松村氏のプロデュ ーサーとしての地位を確固たるモノにした東洋テレビ随一の看板番組であったが、その脚本も俺に書くよ うにチャンスを与えてくれた。俺は脚本の執筆に全力を傾注した。 知子からは時々連絡があった。局のロビーや、銀座の喫茶店で顔を合わせることもあった。しかし俺は 冷淡なくらい無愛想に知子に対して振舞った。友子は最近かなり売れていて、深夜のショー番組で司会者 の相手役を勤めて人気と好感度を更に高めていた。 松村氏の招待を受けて、郊外に近い静かな住宅街にある松村邸を訪ねたのは、秋も大分深くなった十一 月の中旬頃であった。 松村氏の奥さんは小柄で、明るい感じのする美人だった。三十四五歳であろう。 松村氏の家庭は平和でゆったりして、全て満ち足りた和やかな雰囲気に溢れている。仕事のできる善良 な夫と美しい貞淑な妻、礼儀正しい聡明な子供達、快適な住まいと庭、平和な文化国家日本を象徴するよ うな理想的な家庭ではないか。 そのどれもが、俺とは無縁な存在である。俺はこの家を偶々訪れた唯単なる客にしか過ぎない。俺は友 子のことを頭に浮かべた。そして友子と結婚して、このような家庭を築いた時の事を想像してみた。が、 それは困難な不可能に近い作業であった。俺には松村氏の立場にある自分を想像することすら出来ない。 そんなことを考えるなんて、全く馬鹿げていた。ナンセンスな事だ。 しかし、結婚生活の名に値するのは、おれが今目の前にしている、松村氏夫妻のそれ以外には無いはず だし、幸福な結婚生活こそは人生の精華であり、人々が皆渇望し、憧れて止まないものではないか。それ なのに俺は、少しも羨ましいとは感じない。 俺はごく幼い頃から、ごく普通の家庭の味というものを知らなかった。物ごころ附いた頃には俺の家庭 には義母と言う赤の他人が侵入していたからだ。 子供の頃には、友達の家庭を悲しくなる程に羨ましいと感じていたのに、しばらくぶりで幸福な家庭を 目の当たりにしながら、少しも心の動揺を受けず、また少しも不幸ではなかった。それは俺がもう一人前 の大人になったからだろうか。しかし、大人の俺は妻を娶り、子供を儲け、、自分自身の家庭を築く必要 がある。とすれば、松村氏の家庭こそこの俺が手本とすべき模範ではないか……。俺は又もや友子を思っ た。―― あたしは、あなたの何なの。セックスだけなのかしら、あたし達ふたりの関係って…、二週間 前、久しぶりで知子の部屋で一夜を過ごした時に友子が言った言葉が、耳に蘇り、脅迫するように胸に堪 えた。その夜、俺は知子と会う場合にはいつもそうであったように、ひどく深酔いしていた。したたかに 酩酊して、正常な知覚が麻痺した状態で、突然に思い立って電話し、会い、ベットを共にし、朝になって 別れる。部屋を出た瞬間には、彼女のことを全て忘れてしまう。されが、知子との付き合い方だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月15日 20時55分47秒
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