カテゴリ:カテゴリ未分類
「あなたも知っている横川のことなんだが、最近失恋をしましてね」、「失恋ですか、随分とロマンテ
ィックなんですね」、「いやあ、当人にしてみれば、そんな暢気なことは言っていられないんだな。相当 に手酷いショックを受けたらしい。今日、横川にも声を掛けたのだが、そんな事情があって、ことわって きたのです」 松村氏の語るところによると、横川の失恋というのは、こういう話であった。 横川には学生時代から付き合っている年下の美しい女性がいた。彼は改まって自分の恋心を告白したこ とはなかったが、その女性が自分の気持ちを理解してくれているものと、思い込んでいた。彼の恋は純粋 にプラトニックなものであったらしい。それだけに横川の恋情は激しく、一途なものがあったらしい。 彼には多分に古風な所があって、何でもない女性に対してはごく普通に冗談なども気軽に口に出来た が、その恋する女性に対しては、自分でも歯痒いほどに、ぎこちない態度を取ってしまう。それを、相手 の女性は彼が自分に対して少し冷たいと、感じていたようである。 横川は大分以前から友達に教えられた トルコ風呂 に通うこと覚えていた。罪の意識を感じることな く、気軽に生理的な欲求を処理できるトルコ風呂を、彼はむしろ遊びとして楽しんだ。そして、そういう 謂わば便利で手軽なセックス欲の捌け口があったことが、彼のその恋人に対する徹底した禁欲的な態度 に、拍車をかける結果となったようだ。彼は恋人の情勢に対する不自然さに、全く無自覚でいた。 そして、当然のごとくに、不幸な破局がやって来た。10日程前の夕方、横川はその美しい恋人が男と 一緒に 連れ込みホテル から出て来る現場を偶然に目撃してしまったのである。それは彼にとって実に 残酷な体験であった。彼は最初の絶望的なダメージが薄らいだ時、恋人と連れの男の事に関して、何とか 口実やそれらしい説明を探し、正当な理由付けを試みたが、全くの徒労に終わった。 それは、恋人と男とが昼間の情事をそのホテルで持った事は、厳然たる事実だった。 が、それでも尚横川は、恋人のその様な行為が全く信じられなかった。その折の、二人の様子から見 て、その時限りの偶発的な交渉とは考えられない。以前にも、同じような事が二人の間に繰り返されたに 相違なかった。彼は、完全に裏切られたのだった。しかも、全く完膚なきまでに、物の見事にだ。 「女って、皆んな、こうなんでしょうか。そういう娼婦的な要素を、どんな女性も持っているのでしょ うか?」 絶望の淵に沈み込んだ横川は、松村氏に、こう訊いたそうだ。 俺は、この話を聞いて、少しく横川に対して優越感を覚えた。女という異性に、極めて素朴な、青臭 い、少年のような浅い理解しか持たない横川に対してだ。彼が通っていたトルコ風呂の女と、彼がプラ トニックに恋していた金持ちの令嬢とが全く別の人種であるという考えは、恋という病に取り憑かれた男 が等しく囚われる錯覚である。 男好きで淫乱な女がいて、それとは全く別個な存在として、純潔無比な貞女がいる。この両者は、全く 種類を異にする人間である。 こうした女性観を、少年の日の俺も、かつて抱いていたことがある。しかし人は、様々な経験を経て大 人になり、同時に、人間に対する理解を深める。 この世に在る人の数だけ、それぞれ違った人格があり、気質がある。実に様々な人間がいる。富める 者、貧しい者、正直な者、邪悪な者、聡明な者、愚鈍な者、貞潔な者、淫乱な者……、などなど、いちい ち数え上げていたらキリがないだろう。人間性とは、こうした雑多な属性の集積にほかならない事を、人 は否応なく知ることになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月18日 18時16分34秒
コメント(0) | コメントを書く |