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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2016.03.05
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カテゴリ:カテゴリ未分類
愛知名古屋出身の軍人に松井石根元陸軍大将が見える。南京虐殺なる罪で戦犯に指定され、A級で裁判が始まったが共同謀議などあり得ず無罪。しかし一部軍の不祥事を詫びたがゆえにそれを持って捕虜虐待を止めえなかったとの屁理屈でB級有罪で死刑にされたのである。松井閣下も含め7名が東京裁判で死刑とされ、その遺灰は熱海の興亜観音と長野、そしてここ西尾市の三ヶ根山に安置されています。
 対チャイナの戦は日本軍の連戦連勝。チャイナの軍の不名誉を彼らは恥じて日本の非道を捏造、今は慰安婦問題や「南京虐殺」などの作り話で反日の国家づくりのフィクションを構築しているのです。
数年前まで「進歩的文化人」なるものらが朝日新聞などの反日マスコミと組んで東京裁判史観を前面に出して殉国七士の批判をなしてきたが、すでに朝日の捏造も暴露され、一〇〇人切りなどのフィクションもまともな学者は完全否定。
七〇年の月日を経てやっと歴史の真実が表現できるようになってきました。
多くの研究者や国思う人々が三ヶ根慰霊にお越しくださるようになったことは誠にありがたきことです。なぜここに遺灰が安置されているのか、七士の墓の前におかれた碑文を掲示しておきます。

三ヶ根の碑文紹介  殉国七士廟由来

東條 英機(元陸軍大将)
松井 石根(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
板垣征四郎(元陸軍大将)
武藤  章(元陸軍中将)
木村平太郎(元陸軍大将)
広田 弘毅(元総理大臣)

 昭和二十年八月十五日終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を負い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの十一カ国は極東軍事裁判を開き、事後法に依り審判と評決によって右七名に対し絞首刑を決定し、昭和二十三年十二月二十三日未明前記A級戦犯七名の絞首刑が執行されたのである。当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯七名の遺骨を収得しようと決心したのは、絞首刑の判決が言い渡された昭和二十三年十月一二日午後のことであった。なぜならば各担当弁護士が遺体の家族引渡しの件でマックアーサー司令部を訪ねたが了解を得ることができなかったからである。このままでは遺体も遺骨も家族には引き渡されず極秘のうちに処分される事明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。又日本の将来の平和追及のためにも日本国の犠牲者犠牲者として処刑される七名の遺骨は残さなければならない。そこで遺骨だけでも家族になんとか渡したい一念により大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当たっては綿密な計画を要したが、それには先ず計画の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとのことで七人の刑の執行日はクリスマス前日十二月二十三日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察することができた。横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通じ、久保山火葬場長飛田美善市の協力を得ることにも成功した。しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り七名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の目を盗んで奪取し、一応計画は成功したかにおもわれたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審におもい、感づいた米軍人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので米軍も面倒と思ったのか奪取七名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。この時米軍が持ち去った七名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるがどの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。そこで翌二十四日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になることを知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒れる夜半、黒装束に身をかため、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。諸甥は暗くても、灯火と物音は禁物である。骨捨場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入り口も無いので思索の結果、火かき棒の先に空き缶を結びつけ苦心して遺骨を掬い取ることに成功し、ふつうの骨壷にほぼ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。遺棄された真新しい真っ白の遺骨は紛れもなくこの世に唯一の七名の遺骨でありこれを奪取することに成功したことは三文時弁護士にとっては一生を通じ命を賭した熱き長き一日の出来事であった。
 こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の合意の下に財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和三十五年八月十六日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
 以来毎年四月二十九日の天皇誕生日のよき日に例大祭を行うとともに時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客が花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々御参拝に参るようになり世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。
       弁護士   三文字正平 書
 昭和五十九年 十月三十一日  

三月一三日には昼一二時半過ぎに大阪の皆さんが参拝にお越しになります。ご一緒くださるかたがお見えでしたらぜひどうぞ。連絡は〇九〇-八五五四-〇八一七杉田まで

明日は豊橋の陸軍墓地清掃、一時より参ります。





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Last updated  2016.03.05 12:56:00
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