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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2017.11.17
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原風景

わたしの子供のころは保育園小学校まで我が家からは2キロほどの道のりを徒歩で通っていた。道はあぜ道にちかい。土に採石が盛られて、固まっているが、雨が降れば水たまりができるのは当たり前。タンポポをとったり4つばのクローバーを見つけて歓喜したりとのどかな田園風景の中を歩く。中学は4キロ。今は近くに小学校も中学もできて通学は楽になったが寄り道をする土手も小川も畑もなくなりポンツクをしてあそぶ池もなくなった。死者を送る焼き場の岡もすっかり街並みの一部になってしまっている。

アスファルト舗装が始まったころのこと。父が将来学校まで土を踏まずに通える日が来るかもしれないぞ。驚きの言葉であった。そんな日が来るなど想像もできなかった。

保育園児のころ、畑にはリアカーでいく。石凹の道を引いてもらって畑に行った際に、つい立ち上がっていた。石の上に車輪が載った際わたしはバランスを失い倒れた。そこには備中ぐわも歯を上にして倒れていたのでその上に顔をぶつけて大けが、5センチもずれていればノドに突き刺さっていたが、あごにあたり傷になった程度で済んだ。「ソ連に支配されたら無理だろうが、アメリカだから案外早いかも。顔に傷ができたわたしをみて父はこう言ったのだった。

小学校で習う偉郷土の偉人伝にでていたのは自動車のトヨタではなく自動織機の豊田佐吉。ヨーロッパの機織りに負けぬ自動織機を創り出した豊田佐吉はまさに英雄。

車ではやっとミゼットという3輪車が他の家に先駆けて我が家に入った。自慢の車。それまでは田んぼの耕しも道路での運搬も各家にて育てる黒牛がおも。牛の後ろにすきを付けて田起こしをする。そのスキの上に乗せてもらって父が操る牛と共に進むのがスリルもある遊びである。

牛耕も耕運機に代わり、田植えも機械に代わる。

高度経済成長の時期までは戦争の跡は至る所に。戦地で亡くなった父を持つ同級生も中学生時代は新聞配達をして家計を支えていた。

我が家も26頭飼っていた乳牛ホルスタインも周辺に家が増えてきてにおいが公害とされて酪農も廃業。時代は大きく変わってしまった。百姓家だから朝から晩まで働きづめ。子供も牛の世話や畑仕事を行うのは当然。町の人らは映画を見たり外食をしたりと、なんと優雅な生活か。

もっと驚きは労働時間が決まっていてかつ、デモだのストライキだのを組むことで社長をつるし上げて給与を増やす運動。陰徳を積むとか、おてんとうさまはいつも見ているなどの感覚がない人ばかりが都会にはいるという。創意工夫や努力より働かないで組織の力で給与上昇を勝ち取るという発想。全ての人にものに感謝し、自然の恵みに感謝することを求められた田舎の生活とは異なるもの。死者に鞭うつなどは無責任な愚か者のなすこと。立派な先人は自己を無にして世のため人のために全精力を傾けている。そうした人になりたいと僕らは思って育った。

利己主義が貫徹する個人主義には嫌悪感をもいだいた。理念は立派だが多くは公をなさずに済むエゴイズムが垣間見られ、また凡人にはわかるまいとする裏返しのエリート意識を感じるから。他者の非難をするならそれ以上の社会的貢献をなす覚悟がいるはず。それなしに自己主張されるのは利己主義と何ら変わらない。

 

こう感じていてもこうした生き方は凡人の私には全く不可能。時間も金も能力も根性もない。人の苦悩を和らげる等能力外の糊塗。とはいえだから何もしないというのは間違い。できるぎりぎりを成して尽くすしかない。

 

そうした折その理想を体現なさっている陛下のことを思う。


誰をもなしえない人としての目指すべき道を真っ先になし続けて見えるのが陛下御一人なのだと深く思う。

 

両陛下 島々に思い込め 47都道府県、今回で2度ずつご訪問 きょうから鹿児島巡る旅

 天皇、皇后両陛下が16~18日、鹿児島県屋久島、沖永良部島、与論島を巡る旅に出られている。今回の同県訪問で、即位後に全47都道府県を2回ずつ訪ねられることになる。

 宮内庁によると、今回の離島巡りは23年から検討。奄美大島と未踏の沖永良部島、与論島を回る計画だったが、陛下の心臓手術などのため取りやめられた。一方、噴火で避難生活を余儀なくされた口永良部島の住民を両陛下が気に留め、慰問を強く希望されたことで実現にこぎつけた。

 陛下は昨年8月のお言葉で「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なこと」とした上で、「とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と述べられた。(中略)

 慰霊は沖縄本島が中心で、これまでに計10回ご訪問。沖縄戦の中でも激戦地とされる伊江島にも昭和51年に立ち寄り、慰霊の塔に供花された。戦後50年を前にした平成6年には「慰霊の旅」の原点となる硫黄島(東京都)に赴かれた。

 「お声がけの瞬間、瞬間に被災者からつらい思いが消えたように感じた」と振り返るのは、5年の奥尻島ご訪問時に町議で出迎え、11年には町議長として同行した新村卓実・奥尻町長(64)。「離島もあって国が形作られている。離島に心を寄せる姿勢から、そんな思いをお持ちなのだと受け止めている」と話す。

 宮内庁幹部は「譲位の日が迫る中、今回の離島巡りも、象徴天皇のあり方を改めて振り返られる旅になるだろう」と推し量った。

産経引用以上

 まことに畏れ多きことであります。国民が過去の日本の苦難の時代を忘れ、太平を享受して日々の安逸をむさぼる中で、先の大戦や、その後の天災や人災による被災者の苦難の生活をお忘れになっることなく、人々の心を安んじる為に全国に行幸下される。陛下をいただく日本人はなんと恵まれた存在であるかを改めて感じざるを得ない。

慰霊にせよ、私のなしているのは全く形だけの偽物にすぎないのではないか。陛下が常に被災者や戦死者、海外に眠られる人々への心の奥底からの鎮魂慰霊。これを成し継図けられる陛下は限りなく日本人の魂魄を体現なさるかた、まさに「神」そのものの願いを自らの行動に体現なさっている方と申し上げるべきでありましょう。

ご即位後、何をおいても国たみの幸を第一にされ、神々とのお約束をたがえないように最大のご努力を尽くされることを使命と定めて見える。象徴としての責務とは何かを常に問われて見える方こそ今上陛下であります。

来年1月からは陛下の御即位30年めというまことに尊くありがたき年を迎えます。陛下にお支え頂きお守りいただいている僕らは何をもって恩返しをすべきで在りましょう。

国民こぞって感謝の思いを表そうとしても、平成31年11月はおそらく存在しない。平成30年に津々浦々で陛下に感謝する集いをぜひ成したい。

しかし未だ大御所団体や神社庁や愛国者の諸団体からは統一した取り組み案が出されていません。

陛下の御存在に心から感謝申し上げたいとする国民の姿を後世につなっぐのも僕らの責務。そうした原風景を子供たちが目にすることで、変わらぬ永遠の皇室仰慕の思いが未来につながっていくのだと確信します。

私どもは名もなき草莽にすぎませんが、まず奉祝活動の先駆けとして信念の初めより神社や企業諸団体の事務所などに陛下御即位30年の感謝の思いを表すのぼりを作りました。一月元旦より掲げていこうとの呼びかけに入っています。また、我が国の建国を祝う式典や講演会の開催をぜひ多くの市町村で開催できないかをと計画を始めました。私どもがうかがっている建国の祭典実施地区は岡崎・豊橋・豊川・蒲郡・碧南・知立・刈谷・西尾・豊田・愛西・日進・名古屋・津島の安城などの各市です。まだ計画段階のところもありましょうしそれ以外の地にても話が出始めているやに聞いています。

出来るだけ多くの地にて奉祝の声が発せられるために協力を惜しまずに進めたいと願っています。

 なお、12月2日(土)には豊田市高橋交流館高橋町3-100-1 電話0565-88-4887午後1時半より4時半まで

天皇陛下御即位30年奉祝に向けての集うが開催されますので思いのある方のご出席をぜひお願いいたします。

さて昨日は

朝8時半昨日の畑地に行き、草を刈り市の焼却場にはこぶ。9時半、占部用水の担当者と業者と共に畑の移動地を耕作者に説明、今までの畑地の測量に参加、駐車場の位置確認とフェンスの切りそろえ場所を確認。

昼12時蒲郡の友に会いにいき、建国の日時・講師の先生につき確認及び打ち合わせ。ご即位30年の運動組み立ての検討、市議にご挨拶に伺うも会えず再度行くことに。

三ヶ根に登り通信と先日の葬儀参列の報告をゆうとぴあ支配人の伊藤氏に行う。殉国7士墓に参拝、階下の花園の整備をする。

岡崎に戻り通信の手渡し配布など。

北朝鮮の兵士が板門店での射殺を覚悟してまで脱北を目指した。銃撃により傷を負い手術となったがなんと彼の臓器から大量の寄生虫が見つかったというではないか。その数数万匹とも。兵士でさえ劣悪な食糧事情の中で呻吟していることを知る。あまりにひどい。北朝鮮の衛生環境はもう待ったなし状態。これほど困窮している現状を放置するのは、人として許されることではない。

 もはや一刻も早く北の政権打破をなさねばならない状態のようだ。

 






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Last updated  2017.11.17 11:46:51
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