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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2023.11.01
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カテゴリ:カテゴリ未分類
関口長太郎先生慰霊顕彰祭・法要ご案内
日時 令和5年 11月4日(土)
受付 開始12時半 13時より16時
第三部 慰霊・顕彰・奉納演奏   1時より1時50分
 愛知県西尾市 西尾小学校裏 顕彰碑前
西尾市錦城町229歴史資料館向かい
       奉納演奏  川島憂子氏
第四部 慰霊法要・語り・墓参   2時半より4時    
 盛巌寺(せいがんじ) 
西尾市馬場町70   駐車場 西尾クリニック
語り  田中ふみえ氏「関口長太郎伝」
なお、運営委員他希望者は場所を変えて慰霊碑近くにて反省会検討会を予定、
関口先生の漫画本作成中です、早急に資金を必要としています。ご協力者を募っています、。クラウドファンディングを実施中です。 


台湾教育 芝山巌精神に殉じた教育烈士をおもう

 文部省学務部長心得であった伊沢修二先生(元愛知師範学長)は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先すべきと具申し、六人の志ある人材を連れて台湾にわたった。楫取(かとり)道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の各先生です。
先生達は、台北市内、士林の芝山巌に学校を開設し教育をはじめた。


関口先生は西尾小学校の初代校長、平坂小学校の2代目校長(一説では4代目校長)楫取先生は吉田松陰先生の甥である。

植民地統治を教育から始めたことは世界にも例のないことです。
しかし何とこの六名の先生が非命に倒れられたのである。一八九六年(明治二七年)正月一日のこと。
 六士先生の教育に対する情熱、精神は明治天皇の一視同仁の教育実践そのものであり、多くの人々に感銘を与えました。その精神は「芝山巌精神」と称され、台湾の人々の間に語り継がれてきました。

 昭和五年には台北市に芝山巌神社が創建され、六士先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が、昭和八年までに三百三十人祀られた。そのうち、台湾人教育者は二十四人を数えた。 また、「六氏(士)先生の歌」がつくられ、時の首相、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」も建てられるなど、六氏先生の精神は台湾の学校教育の原点となっていったのである。

 日本による新しい教育を台湾に導入したことによって、伝統的な書房や私塾は次々と没落し、台湾は公学校を通して新しい知識である博物・数学・歴史・地理・社会・物理・化学・体育・音楽等を吸収し、徐々に儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を知るようになり、近代的国民意識が養成されました。

 1925年には台北高等学校が成立し、台北帝国大学は28年に創立されました。名古屋大学(第八高等学校)創立より前に見学されたのでした。台湾の人々は大学に入る機会を得ました。直接内地である日本に赴き、大学に進学した人もいました。

これによって台湾のエリートはますます増え、台湾社会の変化は日を追って速くなりました。
 芝山巌教育・精神によって 時間を守る、法を守る、金融貨幣・衛生・新しい経営観念が徐々に立派な「新台湾人」を作り上げていったのです。

ところが、大東亜戦争後、台湾に乗り込んできた国民党は、神社、石碑、日本人の墓を次々と破壊、この碑も倒され、そのまま野ざらしにされた。日本では関口先生らの教育実践の存在は全く語られなくなってしまっていたのです。
しかし、李登輝政権の誕生以降一連の台湾民主化の動きが進む中で、六士先生の精神を復権する動きも高まり、芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成七年には、芝山巌学堂の 後身である士林国民小学校で、日本からも多くの卒業生、遺族、教育関係者を迎え、開校百年記念祝賀式典が盛大に開かれたそうです。

 また「六氏(士)先生の墓」が新たに建て直され、その後さらに「学務官僚遭難之碑」も再び建て直されもしました。

日本統治の時代が正当に評価されるようになってきたのである。

関口先生が常に語られていたという「仆(たお)れて後已(や)む」「教育は命がけでなさねばならぬ」の芝山巌精神が台湾に息ついており、親日の度合いも東日本大震災にあっては全世界からの支援金の半数を超える250億円が台湾の皆さんから我が国に送られるなど奇蹟とも言うべき友愛の深さを感じます。

 私どもが関口長太郎先生の顕彰を始めたのは一五年前。関口先生がお生まれになった一八五九年(松陰先生の没年)から数えて一五〇年を機に開始いたしました。

 昨年の顕彰講演会には西尾市および教育委員会の後援をいただき、今年は先生の漫画本を一万余冊を作成。市内小中校小学五年生以上のすべての児童・学生に配布の予定です。

以下、西尾小学校横の石碑の文面を書き下し文にして、意訳をなしていただいた。お願いしたのは井上寛康先生。

 故関口長太郎君碑銘
所在地 大字錦城西尾共圜内
碑大サ 高サ五尺幅三尺五寸
君の諱(いみな)(*1)は棟通、長太郎と称す。旧西尾藩士関口宇左衛門の第二子なり。母は安丸氏。君は夙(はや)く藩学に学ぶ。維新後名古屋に赴く。佐藤牧山の門に尋ね入る。

愛知県師範学校卒業の後、訓導(*2)に任ず。在職は前後十有八年。明治二十八年台澎諸島(*3)我が版図に帰す。官学務部を置く。これに隷(したが)って総督府、斯(こ)の民(たみ)を教育せんと欲す。広く有為の士を求む。君奮然(ふんぜん)と之に応ず。

台湾の地、気候炎熱(えんねつ)瘴(しょう)気(き)人を侵(おか)す。加うるに土匪(どひ)の乱を以ってす。人皆往き難し。君曰く、死生(しせい)命(めい)有り。何ぞ海の内外を論ぜん。遂に赴任す。

時に余(よ)学務を督(とく)す。君余を輔(たす)くるに尤も力あり。明年歳旦(*4)、将(まさ)に総督府に賀正す。

途(みち)すがら土匪(どひ)の襲撃に遇(あ)う。挺身奮闘、手ずから二賊を斬る。然(しか)れども衆寡敵せず。遂に之に死す。

距生?安政六年十一月十一日、年を得て三十八。伊藤氏を配す(*5)。
先に歿するに一女有り。尚(なお)幼し。其れ、台湾に在り。
国風一章を風して旧僚に寄す。

曰く、教へ子の餓へを忘るるひまもなし学びの道を思ひやるにも。其の訃の至る。

郷人痛歎す。争って醵金(きょきん)し、之の墓碑を建てんと欲す。則ち其の平素知るべしなり。

夫れ教育の業、宜しく十季を期す。君志(こころざし)を齎(も)ちながら中道にして歿す。誠に惜しむべきなり。頃者(このごろ)郷人書を寄せて余に文を索(もと)む。余(よ)為(ため)に其の梗概を此(かく)の如(ごと)く叙す。

銘に曰く。
進んで険を避けず 国に報ゆるに志を為す 苟(いや)くも其の所を得ば 庸(なん)何(すれぞ)死を恤(あはれ)まむ

貴族院議員 従三位勲三等子爵 松平乗承篆(てん)額(がく)(*6)
前台湾総督府学務部長貴族院議員正五位勲四等 伊澤修二撰文
   南巖 中川衡憲 書
(*1)「諱」は死後に尊んで付けた称号。謚(おくりな)
(*2)「訓導」は小学校教諭のこと。
(*3)「台澎諸島」は台湾とその澎湖諸島のこと
(*4)「伊藤氏を配す」は伊藤氏の女を妻とした
(*5)「歳旦」は正月
(*6)「篆額」は篆書で題字を書くこと
平成二十二年五月二十日 井上寛康 読み下し。学浅く不明の字多々あり、推測を以ってす。

墓碑の概要
関口長太郎は西尾藩士として生まれた。若いときから勉学に励んで、愛知県師範学校を卒業すると小学校教諭になった。その頃、日本領になった台湾の原住民を教育するため、台湾総督府が志のある教員を募集した。関口は十八年間小学校で教えていたが意気込んでその募集に応じた。

台湾は気候風土が厳しく伝染病が蔓延する土地だから、人は避けて行かなかった。しかし、関口は死ぬも生きるも天命だから、死に場所は何処でも同じだと考えて応募した。そして、台湾で原住民教育に励んでいたが、元日総督府に新年のお祝いに行く道すがら、暴徒に襲われて死んでしまった。

関口は安政六年(一八五九年)に生まれ、三十八歳のとき伊藤家から嫁をもらった。その妻は幼い子を残して先立ってしまった。

今、台湾に居て和歌を詠んで昔の友達に送った。「いかに子供たちに教えようかと考えていると、教え子たちのお腹が空くのも忘れてしまうほどだ。」

関口死すの知らせを聞いた郷里の人々の歎きは限りなかった。誰も彼も募金して墓碑を建てようとした。このことで関口の良き人柄が知られる。

十年間台湾で教育に携わろうとしたが、志半ばで死んでしまった。郷里の西尾の人たちから関口を顕彰する碑を建てるから、その碑文を書けとしきりに頼まれたので、この墓碑を書いた。

その墓碑に銘はこうである。

進んで危険を顧みず、国の御恩に報いるために私は信念を貫いた、もしその為に死に場所が得られたならば、どうしてその死を憐れむことがあろうか、本望である

貴族院議員 従三位三等子爵 松平乗承が篆書で墓碑銘を書いた
前台湾総督府学務部長貴族院議員正五位勲四等 伊澤修二が文章を書いた
南巖 中川衡憲が本文の字を書いた   以上




昨日三一日はお墓の花替えお寺でのオブクさん係を行う
御経読みを行った後
町内某大型店舗の周辺の歩道の両脇の側溝の草取り。農協さん管理の駐車場の草取り、西尾の関口先生慰霊碑の有る公園草取りと娘の家の草取り等を行う。
某店舗は町から草取りの要請をしていただいていたが、なぜか一か月の猶予期間を過ぎても何ら手つかず。よって町に公言してしまった手前私が行うしかなかった。しかし半分も進まずに中断。またもや母が出先で折れてあまを打ったとの知らせ。帰宅して休んでもらう。学習用資料二種類を印刷製本。そして夕刻から仕事。
今日は御飯がたけていなかったためオブクさんつくりと読経を母にまかせ
七時より三ヶ根作業。昨日水やりを怠ってしまったので今日は念入りにする。

今日のメインは石額の草取りと側道の整備。
バイク部隊が三〇人ほどきて時折バイクで西域の中を走りまわる。抗議をしようと向かうが皆さんがすぐに隊列を組んで帰っていくので話が出来なかった。静謐にすべき聖域を爆走するなど許されぬ行為。次回があれば即時に抗議したい。

明日は寺院の餅の作成 の係りのしごとが。本来西尾市長と僕らの会合のなのだが行けそうもなく残念である。





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Last updated  2023.11.01 18:02:46
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